覚者慈音102  未知日記講義第一二巻  大霊界  教主寛大講義


未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO61                                      未来観 その2                                                                  教主寛大 講述
  


 慈音はセイキョウを慕ひて彼にすべてを任せ居るが故に、彼の姿見えざれば淋しみを感ずるなり。恰も子の親を見るが如し。慈音は未だ幼児なり。故にセイキョウは彼を守り育てて、誤ちなからしめんと努力なし居るなり。薄氷をふむが如しとさとしたるセイキョウの言葉は、親の言葉にして正し。是に対して慈音が陳謝なしたるは、是即ち親子の情なり。思へば美はしき間柄ならずや。されば諸子はたしかなる指導者を求めて、彼が懐中裡に抱かるることに努力せよ。然して彼と我と親子の情こまやかとなれば、既に信仰は得たる人なり。拝みとは手をさし延べて母の懐中裡にすがると同様にして、その心をして拝みをなせよ。然して彼我一体の境地となりて帰るべき天界を求めなば、それにて目的は達せらるるなり。
 先にも語りし如く諸子は肉体を有するが故に、未来を遠しと思ひ彼是迷ひ居れど未来は遠からず。例えば紙上に一文字を描く。その一文字は既に未来現在過去となり居る関係あることは、諸子の既に知りたる筈なり。時間空間を考ふるが故に、未来は遠しと思ふならん。慈音はセイキョウに誘はれて天界に来り、三世にまたがりて見聞なし居れど、天界にては時間空間なきが故に、唯見聞なし居るにすぎざるなり。されど一度肉体に立ち返れば何時より何時迄と云ふ、横があるによって三世は成立す。天界と下界とにはわづかの事にも斯くも相違あるなり。天界に居る間瞬時と思ひし事も、下界に返らば長かりしと云ふ結果の現はるるはこの相違あるによってなり。慈音がセイキョウをよびしも、我未だ天界の人にあらず。下界に居を有し居ると云ふ観念が彼に存在なし居るが故に、たとえ一時にても淋しみを覚えて、己帰るべき所に帰ることを得ざれば如何にせんと云ふ、不安が蒿じてセイキョウをよびたるならん。斯ることと雖も未来を考へて安からぬ心を起こす故なり。未来はたとえ如何になり行くともすべてを頼るべきものにまかせ居るならば、不安の心は起こらざる筈なり。其にも不拘不安の心を起こすは、未だ頼るべきものにすべてを委す底の信仰は乏しき故なり。一旦信じて其れに総てを委せたる以上如何になり行くとも可なりと云ふ真実の信仰を重ねて、其れによって救はるると云ふ絶対信に入らざれば、相方の間にへだたりを生じて、救ふ方も救はるる方も、互いに真実の力を現すことあたはず。故に危ふし。時間空間距離を有する諸子の世界なるが故に、未来は遠し。天界の理を究めて未来を聯想せば、決して遠からぬ所に未来は存す。然して心眼を開らかば、一目瞭然に天界は現出す。是疑ひなき事実なり。

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