覚者慈音101 未知日記講義第一二巻  大霊界 未来観そのニ  教主寛大講義


未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の弐                         NO60                                       未来観 その2                                                                  教主寛大 講述


 神の世界より出でて神の世界に帰ると云ふ信仰を有し居るならば、天界に来りしは神の世界に帰りたるなり。我家に帰りて何とて淋しみを感ずることあらんや。慈音は今尚茅屋の肉体に囚はれ居るが故に、斯る誤ちたる行為をなしたることに心づきて、彼は深く悔悟の念に囚はれ居れり。慈音に於てすら斯くも過失を犯すなり。まして汝等諸子に於ておや。たのみ難き肉体を我家と思へばこそ、恋ひ焦がれて其れに眩惑され行くべき所を知らず、迷ひに迷ひて軈て肉体をはなれなば宙を徘徊するは当然なり。汝等諸子はよく口にするならん。如何なる美はしき処なりとて我家に勝るものなしと称し居るにてはあらざるか。すべて人は何か相手ありて頼むべきものなければ、如何なる居にをかるると雖も、安心して生活することは難し。子は親を慕ひ、親の姿見えざれば周囲より如何に慰めらるるとも、決して喜びを感ずるものにあらず。思ひは是と同様の事多からん。慈音は天界に来りてセイキョウの姿見えずなりて、はじめて淋しみを感ず。是等も何か頼むべきものに離れたるが故に、其処にはじめて淋しみを感じ来りしなり。慈音の肉体の如き茅屋にては帰りても詮なし。寧ろ天界にそのままをかれし方が幸福を感ずるにてはあらざるか。然るに彼はその茅屋の我家なることに未だ囚はれ居るが故に、帰らざるべからずとの考へより帰るべき道を知らず。故に声をあげてセイキョウをよびたるなり。斯る気まぐれ信仰にては天界の極妙を究むることは許されざるべし。もとより慈音は一時的の誤より斯る挙に出てたりとは云へ、一時的にもかかる感じを抱きしは是未ださとりの居に達し居らざるが故なり。
 人の心は常に何か頼むべきものなければ、淋しみを感ずるが故に、生活なし得るものにあらず。たとえ天界の住居よき所にをかるるとも、何か対象となるべき相手方を択ばすば、孤独性にては楽しかるべき道理あらんや。衣食住に事欠かぬ天界にて安らかなりとは云へ、孤独性にては何かもの足らぬ感じをおこすは一般諸子の習性なり。
 行者は遁世して深山幽谷に住居なし居るとは云へ、何か頼むべきものなければ彼等と雖も淋しみを免がるることを得ざるなり。さればこそ彼等の神を念ずる心はきはめて深し。即ち神を対象物として生活を営み居るなり。然らば行者は神より外に頼むべきものはなきかと云ふに然らず。肉体を労し心を労するも是みな対象となるべきものを択び居るなり。故に淋しみを感ぜざるなり。是等の行者は山川草木禽獣虫魚悉く対象物として生活を営み居るが故に、日々倦むことなく日を送り居るに他ならず。汝等諸子は此世の苦患をのがれて天界に来たらんことを望み居れど、その天界の如何なるかを知らざるが故に、空なることを聯想して徒らに願ひ居るに他ならず。天界の極妙を尽して初めて天界の安らかなることを知らざれば、空しき考へにのみ囚はれて来りなば、決して真の安楽を感ずるものにあらず。未来は近くして又遠し。故に対象物として頼むに足るべきものを現在より択びおかざれば、安楽は望まれざるなり。真の安楽境に入りたるものは、対象物となるべきものを求むるの必要はあらざるなり。されど天界に至る迄の順路を歩むには、すぐれたる指導者を択ばざるべからず。すぐれたる指導者を択びて、そのものを見失はざる用心肝要ならん。

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