覚者慈音1099 未知日記 第六巻 光明論  光明論下巻 巻の十 完結篇  テツシン貴尊講義 教主講義

覚者慈音1099
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の十 
完結篇
                     教主寛大 講義
                    2019.6.26


 一日を過したる汝、一年を暮したる汝、一生を送りたる汝、何れの点に相違あるか。静に考へ見よ。すべて汝等人界に籍を置くものにあらずとして考案工夫し見よ。苦か、はた楽か。然して去年一年労苦して迎へられたる元旦と、一生を過して遺骸を捨てたる今朝とをくみわけて考へ見よ。楽しき正月、悲しき臨終との相違は汝が脳裡に如何にひらめくか。夕べ死したる我なりと思へる今朝の考へとの比較によって、すべてを観察せば大悟は得らるる道理ならずや。汝等は肉体に拘泥せずとは心の底より口にし居らざりしことに気つくならん。昨日死して今日は生れかはりしと思ふとも其は思ふのみにて、事実は昨日も今日も同じ肉体を有する故に何等の変化もあらざるなり。是思ひは事実と相違するなり。試みに汝等の肉体は消滅してあらずと考へて二三日すべての事柄を処理し見るべし。斯くなる時は身に悪寒を覚え淋愁を感ずるならん。
 然るに同じ観念にも大晦日を過して初春の衣を纏ひたりとの思ひならば、胸の躍動を抑ゆる能はざる観念ならん。汝等の心は迷ひて斯る表裏あるによって心は二つ、身は一つなるによって、身を何れか一方に帰せしめんとなすによってなり。智慧あらば斯る愚なる迷ひはあらざるべし。汝等は喜ぶべし。表裏ある汝等が世界なるによって苦しみを、楽みに変へ悲みを喜悦となすを得るなり。
 もしその絶対の世界なりせば一度困苦に陥れば、永久の苦悶は免がれ難ければなり。絶対の世界は喜悦も絶対なり。悲哀も亦然り。されど汝等の世界は相対なるが故に変化は自由に行はる。この自由の世界なればこそ再生も亦行はる。汝等昨日死して今朝はよみがへるを得たるなり。修行は汝等の世界よりなさざれば、絶対の世界に帰りてのちの修行は至難なる事は察するを得るならん。
 汝等の世界に於て獄舎と軍備の要なきに至らば人間の平和は保たるるならん。要はきはめて簡単なるに何故その実行の不可能なるを考へ見よ。即ち律呂を重視し道義を軽視するによってなり。古来の義理人情も今は虚礼虚偽として行はれず、従って近隣相親まざるに至る。徳弧ならず、隣ありの諺も今は空し。雑草はぬけども繁茂し野菜は労力を用ゆるも収穫は思はしからざるあり。汝等雑草となる勿れ。神は雑草を払ひて肥料となし給へばなり。道徳すたれば雑草はびこる。汝等道徳を重んじて雑草を繁茂せしめざるよう意を用いよ。
 陸には歩道あり。海には航路あり。空には空路あり。人には人道ありとせば神に通ずる道なかるべき。早く神眼を得て神道につきたる人間は、即ち正しき人なり。
 

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