覚者慈音969  未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の七  正悟と迷悟  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音969
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の七 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  下
正悟と迷悟



                セイキョウ貴尊 講述
                   2019.5.05
                      239番


 汝等は、「身体の病気に薬はあれど、わしの阿房に薬はない」との俗謡を歌ひ居れど、阿房愚なるによって服薬の要あるなり。賢者聖者ならば其要なかるべし。又或人は云ふ。我無学無智なるが故にむづかしき教へを受くるも理解する能はず。又むづかしき修行は虚弱なるによってなす能はず。然れども日々念仏し居れば救はるると教へられたれば信じて是を怠らず行ひ居るなり。もし其にても救はれずばそは我の至らぬ処弥陀を恨むことは決して無しと云へることをも聞きたり。宗教者は此語を聞きて是ぞ正しく悟したる人なり。真の悟りとは是なりと称讃の声を浴せ居るなり。汝等は如何に考ふるや。宗教者の云へる如く無条件に受け入るるや。はた又他に異論の余地あるや。我は是等の言葉を聞きてさとれる者として無条件に受け入るるを許さざるなり。よく考へ見るべし。
 未来に往生なさんと願ふならば今生の尽きざる間にこそ修行修養の大事はあるなり。他力宗は弥陀を帰依して報謝の念仏をなし居らば、今生の罪科ともに救ふは弥陀の本願なればとの大慈悲心をよきことにして、己は勝手気儘の振舞をなすは宜しからず。未来とは死後を云ふにあらず。即ち弥陀と約束をなせし時を未来と云ふならん。されば其刹那より極楽は現出なせし筈なり。然るを現在は救はれずとも滅後は極楽へ至らんとの信仰にて念仏し、現在の修養はなさずとも可なりとの明らめなれば、其は正しき悟にあらずして誤信迷悟に属すなるべし。
 今一つの例を上ぐればここに一人の正悟者あり。其人誤ちて蛇を踏み足を咬れたるに其人、蛇にその過失を謝して曰く、「汝は其処に在りしを我は知らざりき。さぞさぞいたかりしならん。許して呉れよ」と云ひて己が咬れしをも知らざる如く行き過ぎしも、蛇の毒は感じざりしと云ふ。此人こそ真の悟道を得たるなり。即ち此人こそ弥陀は完全に宿りあるに依てなり。
 先の説をなす人は未ださとりの境地に達したるにはあらざるなり。我は宗教者ならねば宗教に関して是非を論ずる者にあらず。されば宗教の妨害をなさんとするものにあらず。汝等に於ても宗教の自由は勝手たるべし。信ずるを信ぜよ。さりながら迷悟はなす勿れ。後生を滅後と考ふる勿れ。三世は一如なれば今と云ふは既に過去現在未来を意味す。弥陀を信じて我身によび迎へたれば既に未来となりて救はれたるなり。然るに悪き行ひをなすとも其儘救はるるとて尚も悪事をなすなどは未だ弥陀は其人に来りしにあらず。然るを修養修行をむづかしきとてなさず、口先のみ念仏なし居るとも其は悟にはあらず。蛇に咬れて蛇に謝する底の人ならば口に何事をも出さずとも既に、此人は事実に於て悟し居るなり。弥陀とは汝等が身に宿る霊なるべし。然りとせば霊の働きにあらずして心意魂魄のみにては正悟を得るは難からん。口に悟の言葉なしたる人は魂魄の悟にして蛇に咬れし人は霊の悟なり。即ち霊より受くる悟にあらざれば正悟に合はず。魂魄よりの悟は稍もすれば迷悟なること多し。心意の悟は空行く雲の如し。

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