覚者慈音968 未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の七 正悟と迷悟  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音968
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の七 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  下
正悟と迷悟



                セイキョウ貴尊 講述
                   2019.5.04
                      238番


 汝等はさとりと一言詞すれど、さとりは容易になし得らるることを得ざるべし。さとりしと思へどそは覚れるにあらずして、多くは錯誤のさとりに過ぎざることを知ることあらん。是即ち迷悟に属する故なり。正しき悟りは容易に得らるるものにあらず。世の修行者或は宗教者と雖も正悟したる輩は稀なるに、まして一般人には真の誠心より悟する者の少なきは当然なるべし。迷信は迷悟を生み、正信は正悟を生む。さればこそ斯る輩は速かに治癒すべき病人に対しても医者にも見せず、薬石を与へず加持祈禱などに依て遂に死に至らしむる如きは是正しく迷悟の科なり。食物医薬はもとより神の恵なり。是を与ゆるは恵に浴せしむるにて与へざるは誤りなり。如何に修行の術たけたりとも飢えたる者に食を与へずして加持祈禱なしたりとて腹を充たすことを得ざるなり。故に修行修養を正しくせざれば正しき悟りを得ることを得ず。世には迷道をひろめて人を迷信迷悟せしむるによって、人道神道をあやまり伝へて惑はしつつあるは憎むべき事にこそ。されば正しき悟りを得んと欲せば正しき教へより正しき道につき歩みを重ねて、其体験より割出したる智慧にあらざれば正悟を得られざるなり。正悟は心の底より湧き出でたるにあらざれば他人より教へらるるとも悟するは難し。汝等如何なる法によって悟せんとなすや。座禅静座念仏三昧によらんとなすか。其も可ならん。されど是等の法を行ひつつある修行者の中にすら正しき悟りを得たる人は、古今を通じて指折り算ふるにすぎざるならん。宗教専門家に於てすら尚斯くの如し。まして一般人に於てをや。思ふだに正悟の如何に困難なるかを知るならん。故にさとらんとなす者の苦を避けしめんことを教主は慮って汝等一人として洩れざらしめんと計り恵をたれさせ給ふなり。此慈悲や敬ひ悦びて感謝すべきなり。汝等は朝夕悩み病ひあるは心にして此病ひを治癒せしむれば即ち病は治癒す。治癒すれば即ち完全に正悟を得たるなり。身体健康なりとも人は心気不健康ならばそは病人なり。すべてに処して明朗なる心を有する人ならではさとりしとは云ひ難からん。肉体に関しては養生法あり。心の病にも養生法なかるべからず。汝等の多くは此養生を誤ち行ひあるによって病苦を脱するを得ず。常に呻吟なし居るは不憫なり。故に汝等は教主の霊薬を拝受服用して速に健全なる正悟を得よと勧むるなり。

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