覚者慈音936    未知日記 第六巻 光明論    下巻 光明論 巻の五    絶対自然とは如何なるものか

覚者慈音936
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の六 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  上
絶対自然とは如何なるものか



               セイキョウ貴尊 講述
                2019.4.17
                   208番


 此処に苦心を要することは我の云ふ智慧とは広き意味を含むと知るべし。即ち仏教者の説く智慧とはいささか其意味を異にするところなり。もとより霊は大智に属せしむるならば、魂魄の智慧は中智、心意の智慧は小智に属すとも見らるるなり。されば一年の大計をたてず其日暮しに世を渡る人の心意の生活者とも云ふべく、又一年の大計を慮って世に処する人に於て初めて霊的生活者たる価値は現はるると見なすことを得るなり。是を大きく見れば少年時代より一生の大計をたつる人ならでは霊的生活者たらず。又優れたる人と見なすことを得ざるなり。即ち其日暮しの心意生活、其月暮しの魂魄生活者、或は少年暮しの心意生活者、中年暮しの魂魄生活者は多けれども、一年暮し一生暮しの霊的生活者は稀なり。人間を離れて人間はあらじ。誰かの句に、「人多き人の中にも人ぞ無き、人となれ人、人となせ人」とか云へるを我は聞きたり。如何にも尤もなる言葉なりと思ふなり。汝等は人と生れて人とならずして、人の世界を離るるは残念にはあらざるか。めざめては喰ひ、喰ひては眠る蚕に類する生活にて、其が果して人の道なりと考ふるならば、錦を残す蚕よりも劣るにてはあらずや。
 汝等生活とは衣食住と心得なば其処に何か矛盾の伴ひあることに心附かざるか。因より生活の大切なる用途は衣食住に重点ををくは余儀なきことならんも其のみが生活としてのすべてならば、人間界とは単純なりとは感ぜざるや。時鳥と称する鳥は卵を産みても是は他の鳥によって孵化し育てらるるなり。小鳥の世界にすらかくの如き有様なるに、人間界に於ても衣食住のみに重点ををくならば、動物界にして人の人たる価値は那辺にありや。汝等はもとより衣食住のため日々を不安のうちに送り居れど、そは肉体に重点ををきたる結果と思はざるか。然りとせば汝等の肉体宿に宿り居る客の為に何を求め、何を以て客を優遇せんと居るか。汝等は肉体の家の主人をも持ち居るにてはあらざるか。汝の家には主人あり、客あることを考へず、徒に家にのみ囚はれて、主人も客も座敷に幽閉して優待もせず、放任しつつあることに心附かざるか。汝等の宅は家族主義なるによりて個々別々に我儘の振舞をなし、主人も客もあることすら打ち忘れ居るとせば、其は世に処する道とは云ひ難し。汝の主人に、来れる客とは誰ぞ。其は神の使なるべし。神の使は汝の肉体を支配なし居れる主人に、使命をもたらし来りて逗留なし居れるなり。然るに汝等の家族は是を知らず、否其をも忘れて家族争ひをなし、或は物見遊山にとび出しある等乱脈をきはむるを、神の使はよく知りて主人に使命を伝ふるに至らず、天界にかへるの止む無きに至るやも計られざるならん。若し斯る事ありては使命を全うすることを得じ。人として歩む道とは衣食住にのみ囚はれありては真の人にあらずと云ふ事が、うすうすながら悟りはじめしならん。

×

非ログインユーザーとして返信する