覚者慈音935    未知日記 第六巻 光明論    下巻 光明論 巻の五    絶対自然とは如何なるものか

覚者慈音935
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の六 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  上
絶対自然とは如何なるものか


               セイキョウ貴尊 講述
                2019.4.16
                    207番



 絶対自然はもとより総ての大源なることは屡々述べたり。されば其所に帰らずば絶対の妙味を味ふ能はざるのみならず、其家に帰りしとは云ひ難し。又神の懐中裡に抱かるることを得ざるなり。汝等生を享けて我家を知らざるは恰も小児が誘拐せられて、各処を転々せしめられ居るに等しく又不憫ならずや。汝等一生涯転々して放浪の旅を続け親の在所も知らず、其顔も知らずして空しく世を終らしむれば、生みの親の心や如何あらん。
 慈音よ。今汝は野犬の子犬の成長したるを聞きて思はず口にしたる言葉を我は聞きたり。野犬すら五疋の子供を養ひたるに人は餓死す。犬には物価の関係なきかと。我は思へらくさとりはここに在り。慈音よ。今一歩考へを進めて思惟せよと云ひたかりし。天の恵に順ずれば、生活の道は開かる。逆行するに依て餓死す。汝等の智慧は自然を不自然となすによって生くる道を踏み外して深き谷底に顛落惨死の憂目を見るなり。通貨膨張せしむるも不自然なるによる。通貨を手に入るる能はざるも其術を知らざるによる。悪には悪に化する法あり。善にも亦然り。是に順ずる法を以てせば必らず得ることを得ん。とにかくさとりは訳も無き所にもあらん。汝等工夫せよ。汝等は表面を見て内部を見る眼をもたざるにより、其真相を詳にする能はざるなり。心意より魂魄霊に進みたるならば、其後は霊より魂魄意心と展開せば表面より内部へ、更に内部より表面へと看破することを得ん。故に自然に帰るには心意魂魄霊の道を順序をあやまたず帰らば其後は物の理を究むるにも、霊より魂魄意心の順序を開きて明るき世界を見究むるを得るなり。即ち霊は絶対自然なれば霊より相対なる魂魄と次第に進み来り、更に意心の線分自然に及べばなり。されば絶対自然を霊となすなれば其自然の作用は何に相当するかと云へば、即霊の智慧なりと答ふるなり。霊の智慧、魂魄の智慧、意心の智慧と順次単自然に及ぶと知らば可ならん。

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