覚者慈音930    未知日記 第六巻 光明論    下巻 光明論 巻の五    悟道とは如何なる事を悟するか

覚者慈音930
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の六 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  上
悟道とは如何なる事を悟するか



               セイキョウ貴尊 講述
                2019.4.14                         204番


 
 たとひ奴隷の如く顛落せしめられたりとも心迄奴隷となる勿れ。如何に敵国が勝れたる力を有すとも、人心を奴隷となすことを得ざればなり。汝等釈迦の行ひを見よ。彼は日々托鉢と称して乞食をなし居たるにてはあらざるか。されど国王は彼の脚下に跪きしと云ふにあらずや。汝等奴隷の如く取り扱はるる共そは肉体に止め、心を奴隷に低下せしめざる用心肝要なり。肉体衰ゆれば心にひがみを起して、向上の道を逆行して益々低下せん。恰も坂を上る車の力尽きて?棒を離せし如く逆行すれば容易に是を喰ひ止め難きに等し。早くすさびたる心を捨て、活気ある人と化して、人間の人間たるべき道につくべし。然して真の世界を造り互ひに手を携へて明るく朗らかに進まん事を願ふならば人類の幸福は自ら来らん。
 相寄り相助くるは人の道なり。弱きを虐げ強きにへつらふ底の人間ならば、永久不安に日を送るによりて幸福は来るべき道理なし。世の中は強きものの世界にあらず。神は弱き者の味方なるべし。強き者と雖も死する迄、強きはあらざるべし。弱きとて嘆くに足らず。弱き者には力を添ゆる者は必ず現はれ来るものなり。神は弱き者に力を与へ給ふ。斯く云はば汝等は云ふべし。何故に日本の弱きに力を与へざりしかと。汝等は余りに利己なり。日本は強き国にて古来より他国よりをかされし事なしとて、国民は誇り居たる強き国ならずや。故に神は力を与へず、覚醒(めざめ)しめんが為の教へを与へ給ひしなり。されど今後国民が覚醒て心の底より悔ひ改めるに於ては、神は決して棄て給はず。弱くなりし汝等に力を与へ給はん。されど今日に至っても尚悔ひ改めずば悔ひ改むる迄は神は力を与へず傍観し給ふべし。早く覚醒て悟る処を求むべし。不善を知らずばさとりしにあらず。不善を善なりと思はしめんとなすは、理を非に曲げんとするに等し。其を巧妙に説くとも無益にて俗言の負け惜みに過ぎざるなり。悪きと悟れば直ちに改むべし。神を怨む事勿れ。天に声あり、曰く、国法に誤ち多し。されどそは其時々に応じて造り出し、又廃するに依てなり。神の法は終始一貫して変る事なし。故に守らずば過誤を生じて罪悪とならん。早くさとりて神の法に従ふべし。
 例へば水の低きに流るるは神の法にして、低きより高きに流さんとなすは人の法なり。神の道には無理なく人の道には無理を伴ふ。総じて正しき自然を神の法と感じ、人の思ふ自然に化すれば身を損ひ心に傷つかん。神の自然は立体なれば何処より勘考するも隙なけれど、人の考ふる自然は線分或は平面なるによって必ず隙あり。隙とは合間なり。合間には塵埃の侵入するは当然にして汚れ汚るる心配はあらじ。汝等に覚れと命ずるは、即ち神の自然に帰れと教ゆるなり。

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