覚者慈音928    未知日記 第六巻 光明論    下巻 光明論 巻の五    悟道とは如何なる事を悟するか

覚者慈音928
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の六 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  上
悟道とは如何なる事を悟するか


               セイキョウ貴尊 講述
                2019.4.12                         202番


 
 汝等悟道とは何を悟するやと訊かれなば如何なる回答を与ふるや。曰く、人道を悟するなりと。然らば人道とは何か。曰く、其を知らざるによりて悟せんと苦むなりと。然らば人身を受けて地球上に置れたりとすれば、其日々々を其儘に送りて死する時来らば死すれば其にて悟りを得たるにはあらざるか。敢て種々様々迷ふとも人は人なり。獣類は獣類なり。人を獣類に変ぜしむるを得ず。人又他に変化せざれば人間は如何に工夫するとも神にも仏にも化するを得ざるならん。人の姿を其儘に生きとし生くれば其にて神より授かりし任務は果さるるなるを、何を好んで悟りを得んとするや。悟るも悟らざるも人は人なりと。汝等此言葉を聞かば如何に其人をさとすべきか。汝等は言はん。そは無法の言なり。人間と生れし甲斐には人間とは何かと云ふ真の姿を知りたければなり。然らば其を知りて何の海りと思ふや。汝等古来より真の人と云へるものを見しことありや。若しありとせば答ふるならば其は果して真の人なりとは如何なる観察によりて知り得しか。のみならず其は正しく真の人なりとの判定を受けたるならば、其人の如くするによって真の人間となり得べき道理ならずや。汝等の修行の態度を見るに唯取りとめ無き事のみなし居るを遺憾とす。
 恰も杖を失へる盲者の如し。汝等は確かなる事を握りしめてたゆまざるにより迷ふなり。されば悟道を得んとならば進むべき道を先づ求めて其道を歩まば可ならん。人と生れて唯其日暮しにて生きるが儘に生き、死するがままに死すれば其にて可なりとの悟りを得たりと思ふならば其にても可ならん。聖人君子と云はるる人は学徳兼備にして是等は真の悟道者なりと思ひて道を求むるとも、彼等と同様の人とはなる事を得ざるべし。されば世を厭ひて出家得道なすとも名僧智識と算へらるるは幾何ぞ !
 然して人類全部は宗教家と化するならば世界は保たれざるならん。然らば人類は何をか求むる。然して何をか悟らんとなすや。汝は何によって世に処し居るや。汝は安楽ならんとせば何が己の最高至高と思ふや。汝は何を得ば最大の喜びと感ずるや。金銀財宝なるか。はた美味佳肴なるか。物見遊山なるか。見事なる住居か。はた又娯楽か。男子は美はしき女人か。女子は又好男子なるか。是等を求て得れば人と生れし最大の幸福なれば悟道なして心に止むるの要もなく、又悟道などとは宗教者の世迷事にて死後など考へたりとも明日をも知れざるに、ましてや死後など考ふる暇あらば、好める囲碁将棋にても娯しまんと考ふるや。殊更敗戦の苦をなめたる汝等日本国民には悟道とか悟りなどの論議の余裕なしと思ふならん。自由自在に空翔け廻り虫をついばむ小鳥を見ては羨み、埃溜をあさる野犬にすら心惹かるる汝等、其にても最高動物と誇りし昨日迄の姿は今更感慨無量なるべし。斯る事にて悟道は得られざるべし。されど汝等よくよく考へ見るべし。斯る時に遭遇したればこそ、ここに悟する道はあらざるか。人は種々様々の事に遭遇するに依て、其処に初めて大なる悟りを験するなり。常住坐臥何等の変化なければ人は思慮を廻らさざるは一般の習性なり。座禅する人は何かの変化に依て初めて見性するものなり。汝等は今日の憂目を見たればこそ何かここに悟すべき処は、大にある事を我は知る。汝等よくよく工夫し見るべし。

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