覚者慈音927  未知日記 第六巻 光明論  下巻 光明論 巻の五  暗示の正体  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音927
未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の六 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  上
暗示の正体


               セイキョウ貴尊 講述
                2019.4.12                         202番


 汝等暗示の正体について何か思ひあたる事なきか。暗示に対して教主は信も暗示にして迷ひ疑ひも暗示なりと仰せられたり。是に対して慈音は我に対して質問をなし居れり。依て我此理由より先に説明して迷ひをとかん。
 暗示とは一服の薬品の如くにして症状に依ては種々なる調剤をなさざるべからず。されば信ぜしめんとならば其に相当の薬品を配し、迷ひ疑ひに対しても亦同様の方剤依らざるべからず。故に教主は斯く仰せられたるなり。されば暗示の正体は霊的薬品とも判断して可なるべし。然して更に施術に要する器具機械とも見らるるなり。唯一言に斯く語らば其迄なれども、汝等には物足らぬ感じなすならん。されば今少し詳しく語る事とせん。
 汝等樹木を見て春に芽を出し花開き夏に葉繁り、秋に実を結び冬にはすべては落ちて枯木の如き装ひとなるを何とも感ぜざるか。今是を人体にとりて暗示より感じたりと考へて験し見ば次の如き現象ありとも見らるべし。先づ暗示の肥料を受けたる樹木は其に依て発芽し次第に花を開くに至る。然して実を結ばせし結果を見る時肥料を施し或は科学的栽培なしたると、唯天然のままに養育なせしとの相違を知る事を得るならん。是暗示の肥料、暗示の人工栽培の力となりて現はれたるなり。木にも草にも暗示の肥料には感応導交する事も知らるるならん。さればこそ教主はすべては暗示にして暗示ならざるは無しと宣はせられたり。
 さて次に落実後冬の季節に枯木の如くなりたる状態を人間に感応したる状態とも見なされて面白し。枯木の如く見なさるる樹木と、催眠術にかけられし人間の姿と相似たるによりてなり。のみならず是を資料として観察せば原理は自づと推測なすを得べきによりてなり。そは如何なる事かと云ふに樹木は眠れる如く見ゆれど眠れるにあらず。人も催眠術によりて眠れる如く見ゆれど眠れるにはあらざればなり。樹木は全部の動力を一ヶ所に集注して時間の至るを待つ如く、催眠術にかかりたる人も全神経の動力を一ヶ所に集注なして、次に来るべき命令に準備をなしつつあるなり。故にかくせよと命ぜらるれば忽ち是に応ず。然して其応じ方は平常と異なり、其命ぜられし事柄にのみ働き、他の事柄には決して応ずる事もなく又他の事は決してなさざるにより、不可思議と思はるる底の働きを現はすものなり。小児が己の力の分度に過ぎたる重量を平然と持ち上ぐる等も、全力の働きを一方に集注して用ゆる結果なればなり。恰も各所に分布せしめたる電力を一方に集めて大業を構成するに等し。此理より推測して考へ見ば人間不慮に遭遇せし時思ひもよらぬ働きをなし、後に至りて我と我行為に驚愕なす事のあるも推して知る事を得るならん。されば今我語りし説明によりて不審も自づと解決なしたるならん。然して人間が教育によって身心の変化し行くも自然性習慣暗示の作用による事もあはせ悟る事を得たるならんと我は思ふなり。従って信も迷ひも又暗示の作用の結果によると云ひし事も知り得たるなるべし。暗示については幾多説く処多けれども大抵は此理に属す。故に此辺にて説明を省略なして次の項目にうつる事とせん。

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