覚者慈音919    未知日記 第六巻 光明論    上巻 光明論 巻の五   人体に輝く光明

覚者慈音919
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の五 
明鏡篇  その五
第五の明鏡   その3
人体に輝く光明
旅人と旅僧の巡り合い



                教主寛大 講述
                2019.402                 194番


 旅人と旅僧の例話に見る如く僧の修行力に依りて、線分的運命は開拓せられて死をまぬがれたれど、若し旅人が修行にたけたる人なりしならば、一時的の死相をも生ぜしむることなく、己の威徳に輝く光明にて是を消滅することを得るなり。人間の肉体に輝く光明は悪魔を駆逐する力あることは云ふ迄もなし。人体の光明が他を引きつけ、或は此威徳にて自然に圧倒する等、又は何者をも服従せしむる働きあることは既に幾度となく説きたる如くにて、魅力とか権威と云ふも皆人体の光明なり。是を有意義に働かすと働かせずとはみな修養修行程度如何によるなり。然して此光明とは霊光の威徳より生ずる気光素の作用と或は霊光の放射する空源力との二種ありて、霊光が魂魄に通じて働きたる気光素の働きは一時的と又長期的との区別。是等の区別は千差万別にして一言詞する能はざるも此処にいささか大要を説きて参考となしをかん。
 先づ気光素が一時的の働きにはその来るべき事柄に対して発すると、又何もあらざるに発するとの区別あり。その一つの例として汝等は他人より謗るらるれば怒りを催し、褒めらるれば喜ぶ等は一時的にその気光素は瞬時に消滅す。又身体健全なるに不拘何となく哀愁を感じ、人目なき所に至りて思ふ様嘆きたく感ずる事あり。是等は即ち一時的気光素の変調なる働きなり。是には肉体不健全の人には往々現はるれどたまたま健康者にも現はるるなり。此理論は後に語るべし。
  気光素が日々昼夜の別なく働きあるに依て、身辺に襲ひ掛る一切の事柄が顔に現はるるを以て観相者が一見して種々様々の発生し来る事を予測するなり。観相者たらずとも汝等に於ても他人の顔色によって彼是と意中を察するならん。又霊光より魂魄を通じて生ずる気光素に依て受くる現はれには、錯覚的現象と幻影的と又一種暗示作用を現出するとの区別もありて、その区別を計ることは容易ならず。中にも暗示作用より起る気光素の働きは極めて峻烈にして、他の作用とは比ぶべきもあらざるなり。例へば一時的現象の中に何とは知らず悲しみを感じて人眼なき処にて思ふ様嘆き度しと云ふ心の生ずるも、是は何かの暗示作用より起る現はれなる事多し。仮に親兄弟と別れたる人がその別れし時の気候状態が現はれし時、不意に悲しみを感ずることあるものなり。又己何か世渡りに対して哀愁を覚えたるなどの体験が年月を経て、潜在暗示の働きに依て生ずるものあるなり。即ち暗示作用より来る諸々の現象は一朝に説き尽さるるものにあらねど、この原理を会得せば一切は察することを得るなり。人には無の境涯が一日四五回はあるものにて何も考へざる時間を作り居るものなり。
 暗示と云ふ言葉は一般に用いられ居れどその理論を詳細に説明なせし書物は見あたらざるべし。暗示の種類は数多くして其応用範囲も極めて広し。中にも自然暗示、又は習慣性暗示などは誰もが無関心なれど、是等による暗示は極めて深刻なる働きを有す。汝等はある宗教者の教へに従ひて信仰の度をたかめあるも是即ち習慣性暗示となり居るなり。

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