覚者慈音918    未知日記 第六巻 光明論    上巻 光明論 巻の五   人体に輝く光明

覚者慈音918
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の五 
明鏡篇  その五
第五の明鏡   その3
人体に輝く光明
旅人と旅僧の巡り合い



                教主寛大 講述
                2019.402                 193番


 
  是について汝等が肉体に輝く光明の理論を明白ならしめざるべからず。此例話によって先づ第一に考ふべきは旅僧が旅人を誘ひて大樹の下に来りし事についてなり。初め僧は彼を見し時、死相の現はれ居るに対して、是は救ひ得べきか或は一時的の現象(あらはれ)か、又天性の死相かをたしかめんがために彼には其を語らずして、彼が行くべき方角とは全く反対の方角に導きて死相の如何を験し居たるなり。己先に立ちて歩みながらも心は油断なく背後におかれある故に、旅人は其気に呑まれて僧のもとを離るるを得ず。恰も蛇に魅せられし蛙の如き状態となりて進退の自由は失はれて僧の命ずるままに行ふの他なきに至る。斯くて僧は気に依って死相の程度を計りて大樹の下迄来りて漸く安心の程を得たればここに一夜を明したるなり。然るに夜明けて既に別れんとして彼が顔を見たるに、又も新しく死相のわき出でたるに僧は容易ならざるを悟り、彼にききただせば宝物を渡す約束にて旅立ちしことを知りて頷るるは、其宝物を道に奪はんとなし居る者のある事を悟りて彼を変装せしめたるは、所謂是は法力にあらずして僧の智慧の働きなり。斯く計らひし結果旅人の死相消滅したるは是霊的のはたらきに依る力なり。我、汝等に此例話を引用したるは他ならず。人間性による肉体の光明について汝等にその真相を最も速に悟らしめんが為に用いたるなり。汝等の世界に用いられ居る骨相学の理論はこの肉体光明の一部を引用なしたる学説なり。その骨相には種々なる相あり。長命相、短命相、福相貧相などの類なり。中にも火難水難剣難の相、或は死相等も説かれたり。然れども是等には枝葉にわたりありて随分あやまれる理論を説くもあるは是非なし。是等の事柄をここに詳しく語る余裕なければ省略すべし。されば話をもとに復して語らん。



 例話の旅人が宝を持ち来ることを聞きこみたる悪人輩が共謀して道に待ち受けて殺害して奪はんと謀りしその気体が、気光素によって旅人の気光素に伝はりてここに死相を現はすに至る。されど其旅人は修養修行の力なき故に是を察することを得ざりしが、たまたま修行力高き名僧によって危難をまぬがれることを得ると云ふも、此死相は一時的の現象にして絶対死相にあらざりしに依る。若し旅人にして悟道を得たりしならば斯る危険は避け得られたるなり。又絶対死相ならば旅僧に面会することもなかりしなり。斯く語らば汝等は運命とは不思議なるものと思ふならん。然りとせば運命とは絶対かと云ふに然らず。運命にも絶対相対或は一時的の区別あり。先にも説きたる線分平面立体の区別ありて、線分平面は変ずることを得れども、立体は如何に工夫するとも神の許さざる限り是を変ずることは難し。然れば是等の事柄の区別はと云ふに、例えば前にも語りたる道に大金を拾ひ、是を資本として大福者となりたる人に徴して語らば、大金を拾ひしは線分的にて是に依て巨利を得しは平面的なり。然して此人が生涯を福徳円満して世を去らば、或は其は絶対的に属するやも計られざるなり。然れども此福が、其宝を失ふに至らば其は平面的に終りたるなり。運命開拓をなし得るは線分的或は平面的の運命ならば変更なすことを得れども、力的は如何ともなしがたし。人は修養と修行に依てすべて一般に有する人間性本分迄は誰しもなし得らるれど、其以上人格向上せしむるは容易の業にあらず。さりながら練磨に練磨を重ねて努力せば平面的運命を変ぜしむる事は至難にあらずと知るべし。

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