覚者慈音920  未知日記 第六巻 光明論  上巻 光明論 巻の五  人体に輝く光明  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音920
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の五 
明鏡篇  その五
第五の明鏡   その3
人体に輝く光明
旅人と旅僧の巡り合い



                教主寛大 講述
                2019.402                 195番


 又国々の風俗習慣が自然的暗示となり居る事も多し。斯く語らば一切は暗示なりと云ふならん。然り、即ちすべては暗示なりと説くも過説にはあらざるべし。一種の反射力を起すも暗示の働きの感応とも云ひ得らるる事すらあるなり。何となれば幼児はなさんとする事柄より先に暗示を受け居るにより、なす勿れと云ふ暗示は受け入るる力の無くなりあるに依てなり。
 先に人は空なる境涯のある事を話したるが、その無の時間中に現はるる暗示が空の中に入りこみて、是が共鳴の波長により頭をもたげ来ること屡々あるものなり。是等は幼児の例と同様の現象にして、或神経が休止して肉体に変化を来したる時一つの暗示が他の神経に共和して共鳴せば、その働きの波長が残存なし居りて何かの場合に、此波長と同様の事が生じたる場合に頭をもたげて思ひ出したる如く共鳴を初むるに依て、不思議の現象と驚けど決して不思議するに足らざるなり。是は無形の暗示とも云ふべきものならんか。旅人の死相の現はれしも此暗示の伝導より来りし現はれと知るべし。
 今汝等が国日本は食糧難にて餓死病を発生して猖獗(しょうけつ)しつつあり。是等の病状を見るに一種の暗示作用より生じたる現象にして、医学者の学説とは唯推測よりあてはめたるに過ぎざるなり。中にはその学説に相当するもあれど、大半知らず知らずの間に暗示作用にて病気にかかり居るものと見らるるなり。是等も自然性暗示に属するなり。其は食糧が不足々々と云へる暗示がなせしわざわひの結果なればなり。食糧に対して彼是考へざりし頃一日二食主義、或は一食主義にても、其も玄米食に一椀の味噌汁にて暮し居れる者あるに不拘、斯る飢餓病などは発生せられしことなかりしなり。然るに現在の食不足を称へ居れど、可なり多くを摂取なしつつあるに不拘、斯る病気の発生するを見るに徴しても頷かるるならん。汝等暗示の理由をよくよく翫味してその真相を把握して他に処せざるべからず。迷ひと云ふも信ずると云ふも帰する処は暗示なるべし。されば暗示の正体とは那辺にありやと云ふ疑問なり。
 此処に人ありて一つの事柄に思ひ惑ふとせんか、その解決に対して甲にきれば斯くなりと云ひ、乙に聞けば乙は斯くならんと云ひて、決する能はず。此時偶然に空間に声ありて、そは甲の説にも乙の論旨にもあらず。斯々せよと脳裡に映じ来りしと仮定し見よ。この空間よりの説が己が脳裡に深き印象と感銘を与ふるならば、其が微妙の暗示、光明の暗示となるは必然なり。よく汝等が口にする窮すれば通ずと云ふ空の暗示を現はしたるにて、汝等は是をも神の声なりと考へ居るならん。されど事実は有極無の暗示によるなり。即ち無極無より有極無を生み、其無に映じ来る現はれなりと知るべし。元来暗示の働きは不可思議なるによって暗示作用と云ふ言葉を用い居れど、この理を正しく認識することを得ば、暗示にあらずして明示となるならん。されば汝等他に対する場合にも深く意を用いて悪き言葉は速かに捨つべし。心に深く止むれば暗示は明示となりて永久消えざればなり。無極無より有極無と智慧は作らるる毎に有となりて働く。即ち動の力あるによってなり。動も有に属すると考究すれば動とは即ち有極有となる。無極無のある以上、有極有もあるならん。絶対有即ち有無を伴はざる有もあるならん。動を其と考ふる時、ここに新しきものを発見するなり。

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