覚者慈音916    未知日記 第六巻 光明論    上巻 光明論 巻の五   人体に輝く光明

覚者慈音916
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の五 
明鏡篇  その五
第五の明鏡   その3
人体に輝く光明

偶像信仰について


                教主寛大 講述
                2019.401                        191番


 
 汝等偶像を拝するは如何なる目的ありてかについて、考へしことありしか。何か願望ありて頼むとならば、偶像は如何にして此願ひを叶へ得るか。その偶像に力ありとせば偶像に魂あり、神経あり、筋肉ありて、自由自在に天界或は地界を駈け廻る事を得るにあらざれば目的を果すことは難かるべし。されど偶像は常に自若として平然たり。さればその動かざるものに対してひれ伏して畏れ戦きて拝するや。何処の何には霊験あらたかにして人若し彼に不敬の行為をなさば、其報酬は大なる罰となりて現はれん。信じて敬慕せば其報の広大なること、到底他の何物の及び比ぶべきもの無しなど称して、信心を勧め居るを聞く。然るに有識階級の智慧者も是を無条件に容れて、信仰なしつつあるは実に不思議なり。此偶像信仰の理由を充分に究めて後信仰をなすならば不審するに足らず。理論を弁へず信仰するは、溺るる者藁をも捕むの比喩に等し。迷信妄信は万策尽きて他に手段なきに依て現はるる現象なれば、智者も迷信はあるなり。されば汝等が心より、もし偶像を信ずるならばよくよく其理を明らかにして後に信仰すべきなり。理を究めずして信ずれば迷ひのみ多くして何等の益もなし。
 汝等此理をよく考へ見よ。一体の仏像一体の神の姿刻み上げ、是に名僧と云はるる人、人徳高き神官と云はるる人が、是を開眼して盛なる法要を営み、多くの善男善女が集りて拝礼して種々様々の飾りをなして様々の装ひを凝らして、人心を魅力によりて惹きつけんと謀れば、一般大衆は一種の錯覚を受けて眩惑され、其が深き暗示となり果は気光素の働きに化せらるるなり。故に偶像は有無に不拘何々の仏が奇蹟を現はす如く思はるれど、其真相は大衆の奉ずる気光素の働きの力なり。されば偶像を通じて信者達が其奇蹟を作るなれば人間の力の集団は大なる働きとなる。此理より観察せば此願望を果すは己に出でて己に帰す結果となるに依て信ずる神の力と云ふは実は名目に過ぎざるなり。此理論によって人間の念力は弱く思はるれど、信じて此道をふめば大なる作用(はたらき)あることも頷かるるならん。是に基きて種々様々の事柄が推知さるべし。お守りの威徳とか、銘刀の威徳とか云ふも皆暗示作用による気光素の働きなる事も知らるる事を得るならん。故に偶像信仰も此理をよく認識(わきまえ)へて信仰する事も敢て空しき事にはあらざるなり。されど唯何のわきまへも無く徒に妄信することは慎まざれば、却て危険を伴ふなれば注意なさざるべからず。

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