覚者慈音911    未知日記 第六巻 光明論    上巻 光明論 巻の五   天地創造の妙

覚者慈音911
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の五 
明鏡篇  その五
第五の明鏡   その3
天地創造の妙



                教主寛大 講述
                2019.⒊30                        186番


 
 即ち無極無は絶対無と見なすならば有無を有する無とは、相対無と見なすことを得ん。此二個の無は相似て等しからざる関係なり。何となれば絶対無にして動を伴はざる場合は、是はいささかも働きをなさざれど、相対無には動なくとも働く故に此問に処して大なる隔あることを発見するなるべし。さればテツシン、セイキョウ等が説きたるすべてに魂ありと教へたる事より、我今鏡によりて説きたる事との相違について、此処に詳細説明をなさざれば汝等の迷ひは深刻とならん。所謂一寸の虫にも五分の魂と云ふ諺よりすべてに魂のある事を知りたるに、霊のあるもの無きものとの説を聞きては疑問するは当然なれど、魂とは相対性有無にして、霊とは絶対性無の相違ある事に考へを廻らさば従って了解する事を得べし。一切衆生には魂はあれど、霊あるは稀なり。我、今此所にて語る魂と云ふは相対無にして霊とは絶対無の関係なりと思ひて判断すべし。
 大凡宇宙に生をうけたるもの一切(すべて)は相対無迄は帰ることを得れども、絶対無に帰する事は得難し。人間に生れたる喜悦は其処にあり。人間修行せば即ち無極無に帰すことを得るなり。然れども修養修行せざれば相対無に到るを得れども、無極無に到ることは難し。此故に人間は行ぜざるべからず。行ぜずして相対無に帰りて、又も人間に来らば可ならんも、もし顛落して牛馬に生れなば幾度か苦患のせめはまぬがれじ。汝等ゆめゆめ疑ふこと勿れ。我、斯る宗教的なる事を語りしも汝等を魔界に顛落せしめて苦悶の様を忍びざればなり。其兎に角汝等が心に任せて次なる道を説かん。

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