覚者慈音865    未知日記 第六巻 光明論  上巻 光明論 巻の四  教主寛大講義

覚者慈音865
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の四
四鏡一体の境地


                教主寛大 講述
                2019.⒊ 06
                       143番


 「我ために君を思はば二心、君のために我を思はじ」との古歌はあれど真実腹の底より斯る行ひをなし得る人は稀なり。大抵は人のために尽しをかば何時かは我身に返るとの行ひをなすは多かるべし。四鏡一体とならば真心より世のため、人のためとの精神に変化して己は唯神任せとなり居る事に化せらるるなり。抑圧にて斯る行をなす間は未だ四鏡一体ならずと知りて行をなすべし。既に本心より世を思ひ人を思ふ心となりたれば行は成就したりと思ひて可なり。人に喜ばれんと欲し且つ人より敬はれんと思ふならば善行はなすべからず。是は自己の欲望に過ぎざればなり。一人の謗りはまぬがれじ。然らばゼロとなるのみ。人より敬はれんとなさば又人より蔑みを受く。即ちゼロなり。たとえ人より如何に思はるるもよし。善事は進んで行ひ、悪事は退いてなすべからず。そは神の法則なればなり。然らば何を望まばよきか。即ち神に用いられ神より悦ばれて神の愛を増さんことを望みて行ふよし。さりながら四鏡一体との境地に至らば斯る望みも失せて唯我は神まかせと云ふ心に変じ来ると知るべし。すへて欲望を充さんとなす行ひは失敗に終る。欲望なければ終始一貫なり。行ひし善根のみ残れば其にて願望は果されたるなり。
 信仰についてはすべて人々の意思に適不適あるなり。茲に於て慈音に警しむることあり。若し他より我の教ゆる論説に反駁を加ふる人ありとも、汝自分の智慧もて此人と論議を交ゆること勿れ。我、常に汝にあり。説きて可なりと思はば我は汝に説けよと命ずべし。然らずば唯黙して彼の論説を聞くに止めよ。此論旨の可否は後に汝に教ゆべし。そは汝、口をきはめて語りその者に勝ちたりとて詮なき者は度するを得ざるを我は知るに依りてなり。若し此人は信者となると知らば我は進んで汝をして充分に語らしむべければなり。人には同じ仏教に於てすら他力を信ずるあり。自力を信ずるあり。善行を好むあり。荒行を望むあり。皆己の心に応じたる法を択ぶ者にして斯る人に如何なる論説を説くとも迷はすのみなり。されど迷信者は救ふべし。是慈音に教ゆる教訓なり。
第四の明鏡よりは仄かに霊光の影輝き来りて明るく照しそむる故に、迷ひの雲は徐々に飛散しはじめ今迄陰鬱なりし心は夜の明け行く如く明朗となる。長き睡眠より醒めたる汝等は是より活躍を初めざるべからず。稲は既にみのりたり。刈り入れの日となりしなり。収穫の悦び労したる者のみ味ひ得る喜びの報酬を受くるなり。

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