覚者慈音864    未知日記 第六巻 光明論  上巻 光明論 巻の四  教主寛大講義

覚者慈音864
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の四
真の陽徳とは、そして陰陽一如の徳とは

                教主寛大 講述
                2019.⒊ 05
                       142番


 然らば陽徳とは如何なる事を行ふべきかと云ふ事について語らん。是にも模倣の陽徳もあるなり。仮に陰徳を消極的と考ふるならば陽徳は積極的とも見らるべし。陽徳とは唯表面だちたる事のみと考ふるも誤なり。人の目前のみ善を行ひて人去りて不善を行はば是陽徳にあらず。是は欺瞞善にして陽徳とは全くかけはなれたる行為なり。己売名とか漁夫の利を目的として行ふ行為の配役なる表面善は模倣の陽徳なり。本心より己の利損などを思はずして人の為に行ふ善行は陽徳に属す。企業産業を公に行ひて自分を顧みざる如きは真の陽徳なるべし。人は真の陰徳を積みたきものかな。尚願ふ処は陰陽一如の徳を積まば殊更に有難し。然らば陰陽一如の徳とは如何なることをなすべきか。是は汝等にいささか理解し能はざるへけれど少しく語りをくべし。
 陰徳とか陽徳とか云ふはすべて迷ひに属すと語らば、汝等は首を傾けていぶかるならん。因より徳をしくに迷ふてはしく能はずと思ふは無理ならねどその一方に偏したる思ひには迷ひを生ず。何故ならば善を施さんと思ふは既に迷ひなりと云ふにあり。されど陰陽一体一如とならば此迷ひの殻を脱ぎて如何にしても大慈大悲とも云ふべき真心のほとばしりより生ずる行ひが、泉の水の如く溢れ出でて知らず知らずのうちに徳となりて現はるるにより、其力は一方に偏らず或時は陰徳に或時は陽徳となり、事に応じ機に従ひ陰陽何れかとなりて現はるるなり。是を一如の姿と云ふ。即ち慈悲心とは此境地を指したるなり。
 四鏡一体の行を修得したる人は即ち此慈悲心の現はるるによりて知ることを得るなり。神の心の雫の水に霑ほされ居るによりて人の苦を見、且つ聞かば同情の念湧き出でて如何にかして其苦をまぬがれしめんかとの念に燃ゆる厚き心は抑圧するを得ざるに到らん。慈悲の心は仇なす者をも愛して決して憎むものにあらず。罪を憎んで人を憎まずと云へる譬喩あれど、慈悲心は罪を犯すを哀と思ふが故に、殊更其人を愛して憎まざるなり。盗みする子は可愛くて捕縛とる人が恨めしいと云ふ親心は慈悲の一種なるべし。其はともあれ、四鏡一体の境地に達してはじめて味はるる事は、従来の心理状態は影もなく消え失せ居る事なり。

×

非ログインユーザーとして返信する