覚者慈音861    未知日記 第六巻 光明論  上巻 光明論 巻の四  座興半分怠窟しのぎに此書を見るならば尚更倦怠を感ずべし。 教主寛大講義

覚者慈音861
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の四     

真の魂魄一体となりて霊光の智慧を求めよ

                教主寛大 講述
                2019.⒊ 03
                       139番


 大極が陰に働く時は絶対陰に力を注ぎ、陽に働く場合は絶対陽に働く故に、善に用ゆれば結果に於ても更に応報の終末に至る迄善に属し、悪に用ゆれば是又善の理と同様終末に至る迄悪に化するなり。
 第四の鏡は陰陽合体の極致即ち大極性より現はれたる明鏡にして其鏡と同様のしるしは汝等の魄に受け居る力なれば是を無意義ならしめざらんことを願ふべきなり。善事を行はんとして行ふ善、もしくは悪事を行はんとして行ふ悪は平面の善悪にして、心の底腹の底より湧き出でて行ふ善悪は平面絶対の行ひとなるなり。世に云ふ陰徳とか或は陽徳とかはその平面絶対に属するならん。然りと雖も是なる陰徳陽徳にも亦様々異なる理由ありて一括して絶対に属すとは云ひ難し。何となれば同じ陰徳を施すに際しても是が現はれて、其報いを望むならば其は絶対にあらず即ち相対に帰すればなり。唯後の現はれとか或は結果とかを考へず、謂はば無意識に行ふ陰徳にあらざれば絶対とはならざるなり。此理は陽徳に関しても同様と知るべし。善を行ひて善の賞を求め、得んと計る善は平面相対善なるによって通ずる力は微弱なり。心に悪心を貯へて行ふ善は線分相対善なりと考へて用ゆべし。通ぜざるは当然なり。何となればその善行には疑ひを誘導するを以ての故に通ぜず。通ずとも効果は顕著ならざるべし。(我の説きし体得面得線分はその形を云ふにあらざれば誤解すべからず。物の比較と解釈すべし)
 己自らの考へより世の為、人の為と思ひて行ひし陰徳が却て悪しき結果に終る例は少なからず。斯る陰徳は何故ぞ。其は悪しきにあらず、陰徳は陰徳なれど行ひの事柄に於て智慧の及ばざりしなり。即ち陰徳と智慧とは別個の働きとなりたればなり。此意より推定するも線分の陰徳平面陰徳或は立体陰徳又是等の陽徳は智慧を充分に働かさざればなしてならざる事多かるべし。然らば智慧は陰徳とは別個のものなるかとの疑問を生ずるならん。智慧を伴はざる陰徳の施しの徳は是心意の働きにして線分的なれば却て正しき徳ならず。心意のみなれば智慧うすし。魂魄のみにても平面となる故にあやまちあり。四鏡四根一体となれば先づ正しかるべし。然りとせば陰陽両徳にて智慧は伴ふを以て別固とは云ひ難きなり。即ち陰陽両徳を施さんと思ふも智慧より生ずるなるによってなり。心意魂魄は智慧の程度に依て差あれども、その大要は異ならず。是を仏教者は一切平等と説き居るなり。此理より見るも大切なるものは智慧にして、其智慧を増大せしむるものは修養なり。されば修養の肥料を充分に施し修行の鍬を振ひて智慧の果実を立派なるものに結ばすは人の任務なることは当然の理なるべし。人間の道とは智慧を磨くに在りと云ふも敢て過言にあらざるべし。智慧を磨かずば神の道に順ずるを得ず。神の道に順ぜざれば使命を果す能はず。使命を果さずば人にあらず。然りとせば智慧を求ざるべからず。即ち智慧は人の根原なりと云ひ得らるなり。されば魂魄一体となりて霊光の智慧を得んことに努力せよ。心意魂魄のみの智慧はあさし。方所を絶する大なる智慧は神の力を知れる霊光によらずんば求め得る事は難し。心意と魂魄個々別々の智慧は如何に働くとも過誤多くして取るに足らず。さればこそ汝等の国(日本)は亡び、更に敵国に依て救はれんとする皮肉の現象を呈す。亡ぼされたり、救はるる運命はあさましくも亦憫なり。
されば果して敵国の論説による民主々義は立体的の理に合ふや。汝等は民主々義と云へる事すら其本旨を知る者は少なからん。又自由主義も同様ならん。是等は枝葉に渉るを以て後日折りあらばセイキョウを以て詳細語らしめ其一得一失ある事を知らしむべし。斯くの如き民主主義自由主義は平面的思想なれば紆余曲折は免れざる事とのみ伝へをくなり。是等は魂魄の智慧より出でたる智慧の現はれにして霊光より受けたる智慧の現はれにてはあらざればなり。

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