覚者慈音860    未知日記 第六巻 光明論  上巻 光明論 巻の四  座興半分怠窟しのぎに此書を見るならば尚更倦怠を感ずべし。 教主寛大講義

覚者慈音860
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の四     
汝等に告ぐ、座興半分怠窟しのぎに此書を見るならば尚更倦怠を感ずべし。

                教主寛大 講述
                2019.⒊ 03
                       138番


 第四の鏡は斯くの如き大なる且つ不可思議なる力を有するなり。汝等此鏡を働かせ得る修行せば更に自由自在の境地に到達するを得べし。一度第四の鏡の徳をうけたる者は善悪何れを論ぜず、欲する儘に行ひ得るなり。されど四鏡には因果応報の現はれあるにより、善には吉の応報は現はれ、悪には凶事の悪応報は現はるれば何れを択ぶかは行ふ者の覚悟次第なり。如何なるせめに会ふとも我是を行はん。たとえ悲しき応報を受くるも可なりと思はば悪をなすも可ならん。又我永遠の喜びを得んには善事を行ひて吉の恩恵にあづからんとならば、善を行ひてその光明の輝きをますに不如。今我四鏡の大事を語るも汝等はセイキョウ、テツシンより教へられたる論説と同様なりとのみ心に止めて深く考慮せんとなさざるを我は知る。汝等の智識の程度は斯くも低し。セイキョウ、テツシンの語りし事は虚言虚偽にあらざれば、我の教ゆる処と反する処なきは当然なり。されば汝等是を聞きて何故に考慮を廻らさざるか。空しく脳裡をかすめて是が工夫をなし不審の箇所を発見なさざるか。我が教へし中に不審の箇所あらざるか。或はありと思へど質問の術を知らずと考へ居るや。唯迂耶無耶に聞きて時間を空費するのみにては何の得る処もなかるべし。就中(なかんづく)汝等の中には座興半分怠窟しのぎに此書を見るならば尚更倦怠を感ずべし。其よりは面白き小説にても読まば可ならん。心に染まぬ教へは如何に尊きも論ぜず、路傍の雑草に等し。熱心者の妨げとならざるよう遠ざかるべし。
 陰の光明、陽の光明を順逆に使用する事によって結果に大なる相違あり。即ち順に用ゆれば気光素の働きとなり、逆に用ゆれば光気素の働きとも云ふべき結果となるなり。即ち汝等が世界の電気は光気素の作用にして上流界の電気は気光素の法則に合ふの相違なりと知るべし。又陰中にも陰陽あり。陽中にも陰陽ありと知るべし。即ち陰中の陽陰とは魄意にして、陽中の陽陰とは魂心に相当するなり。然らば絶対陰、絶対陽は無かと云ふに、其陰陽とは相対を現はす言葉なれば、絶対の陰陽は無き筈なれど、我に云はしむれば絶対の陰陽とも云ふべきありと答ふるなり。即ち絶対陰、絶対陽の無りせば宇宙は成立(なりたた)ざる故なり。斯く語らば汝等は云ふならん。陰陽は大極より現はれたれば絶対陰絶対陽のありとは不可思議なりと。汝等は平面自然より考ふるに依て不審するも尤もなり。されど立体自然より考ふれば明答は得らるるなり。即ち太陽系宇宙の大極は陰陽一体なるにより陰に用ゆれば陰となり、陽に用ゆれば陽となる。故に立体的観察をなすに至らば其大極は絶対陰、絶対陽と見なして成立なすことを得るなり。然れども全宇宙の中心汝等が称ふる神の世界はその陰陽一体なる大極を造り出せし根原なるに依て、絶対不変なるにより陰にも陽にも属せざるなり。故にこの境地は不変なりと知るべし。此理に関する説明は後に説く事として先づ陰陽一如の大極について語らんとす。

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