覚者慈音857    未知日記 第六巻 光明論  上巻 光明論 巻の四  教主寛大講義

覚者慈音857
未知日記 第六巻 光明論       
上巻 光明論 巻の四     
神の作りし善悪と人間の善悪の相違


                教主寛大 講述
                2019.⒊ 03
                    135番


 賭博師の中に骰子(さいころ)と称する弄具あり。彼等の中に名人と云はるるもの其骰子を自由自在にあつかひて隣座敷に三個の骰子を投じて其数を云ひあて、又己他に今何々の数を作らんと云ひて決して誤らざりしと云ふ巧者ぶりなるに彼は常に賭博に勝ちたる事なかりしと云へるなり。斯る名人が何故に敗をとるかと彼に問へば、彼の曰く、「我の衆に秀でたるを人よく知りて、我との勝負には油断せざるにより我も施す術なく、然して気をくれなす故なり」と云ひたり。是によりて汝等考へ見るべし。彼一人の技量秀でたりとも大衆の油断なき気光素が集らば、彼の気光素は消滅すると云ふ力のある事に思ひ及ばば一致の力の優れたる働きをなすと説きしことも頷かるるならん。此理を深く翫味せよ。賭博は悪き業なりとの心の底に潜在しあるものが、巧みなる技術も妨害なる故に、引圧の平均は損はれて敗をとる結果となる。恰も悪魔の光明は聖者の光明に虐げらるるに等し。一方大衆は賭博の善悪を論ぜず唯彼の巧妙なる技巧に欺かれて大切なる金品を空しく奪はるる如き結果となるは、たはけたる事なりとの念はすべての人が一様に感ずる為に、眼は彼にのみ注がれ居るによって気光素は一体となりて彼の気光素に対抗して彼を圧倒なしたるなり。気体も即ち光明なり。我斯る忌はしき例を汝等に語りて参考となせしも他ならず。即ち悪は善に勝つを得ずとの理を説かんとせしにあらず。悪と云へども其中には相対絶対即ち平面立体の区分あるを以ての故に様々に変化すると云ふこと、又悪と知りて悪を行ふと悪と知らずして悪を行ふと、又悪と知りながら行ふ中に其行ひを忘れて深く陥り居る等の区別あるを以て例題に用いたるなり。其賭博の例に見る如く悪中に善ありと云ふこと、其は業師は己の業にて他を欺き取るは悪きとの観念が悪中に善ありの相対となり、彼は業を行ひて他を欺きて己利を得んとの考へを起さば悪中に悪ありの一方に帰するなり。善行にも同様の理ある事は相対なるを以てなり。其は別として汝等鏡に見たる悪魔聖者の如く悪魔は相対聖者は絶対なる相違の結果に見たると同様の現はれは平面と立体の隔の関係による事も亦知り得たるならん。此例を原となせしはここに在り。汝等の善悪と神の造りし善悪とには格段の相違ありてなれば今少しの間同じようなる事を説くべけれど倦まずして聞くべし。賭博は罪悪ならば競馬とか或は株式取りひき相場師などは何故に罪悪とならざるか。我に云はしむれば賭博道具には税金を課して販売なし、唯金銭を賭けたれば獄舎に投ぜらるるは不思議ならずや。其には種々説明もあらん。然し其は理屈にて道理にはあらず。人間の善悪には矛盾の多きを算ふれば限りなし。故に汝等は此理をよくよく考へて善悪の区別を鑑別し是は神の善、是は神の悪なり、是は人間の善悪なりと判断して行はざるべからず。汝等はセイキョウ、テツシンに依て教へを受けたる自問自答の法に依てなさんとする事柄を霊に問ひ是と答へあらば行ひ、否との答へあらばふべからず。霊は神の作りし善悪を知り居ればなり。

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