覚者慈音764  光明論上巻 巻の一  42番   伊東慈音

覚者慈音764
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の二     
                        
                  テッシン貴尊講述
                  2018.12.31
                  第41番


 ここに一例をあげて資料となさん。或修験者行をつみて神通力を得て雲をよびて是に乗り、思ふさま彼方此方と飛行して得意げに下界を見下して己の高徳を心に誇りて慢じ居たり。或時例によりて雲上の人となりて下界に誇らんとして地上を見るに、一人の乞食叢(くさむら)に横臥して日光を浴びつつさも心よげにゐねむり居るを天空よりよびをこして、我威光に浴して乞食を止めんことを願へと云ひけるに、乞食笑ひて曰く、「愚なる者よ、汝こそ此処に来りて我を拝せよ。汝は斯くもせまき不自由なる雲に乗りて誇りとするは愚も亦甚だし。我は安全にして堅固なる大地に抱かれて天空の蒲団を纏ひ、日光の暖に浴して快く眠り明日の今時迄眠れば労せずして地球を一廻転なし得る力あるなり。其に汝は狭隘なる雲に乗りて彼の山より此処に来り、更に彼の山に帰る如きを誇りとは笑止の至り」と、罵りたるに、雲上の行者思はず激怒なしたる為法力は破れて通力を失ひて逆転して地上に墜落事切れたりと云ふ例話なり。汝等是に依て覚らざるべからず。
 例話に見る行者は霊界に入りながら未だ霊界の真を究め覚るを得ざるによりて、集合と分散は生じたるなり。然るに乞食は霊界に入らずとも真の霊界を覚りたるによって、安全にして不変の境に達し居るなり。汝等此区分をよくよく翫味し見よ。霊界の集合分散と云ふは汝等の心構へによって作らるると云ふ新発見も見らるるならん。教主の覚らざるによりてなりとの意味も理解したるならん。然りとせば汝等は我語りし説は無根なるかと云ふ疑問を生ずるならん。又対光についての観念にも不審を抱くならん。依て今少しく是について語りをくべし。即ち精神上と科学上との対立関係を切り離して推理し見よ。然る時は此処に自づと理解の道は開かるべし。
 例へば此処に一個の卵あるを見て是を孵化せしむれば鳥となるか、或は孵化せざるかに迷ふ時、是を専門家に見すれば忽ち判定は下さるるならん。されど卵は何等感ぜず。孵化(かへ)るは孵化(かへ)り孵化(かへ)らざるはかへらず、唯迷ひは人に在りと云ふに等しきなり。是を一言に判定せば、「さとれば不変となり、さとらざれば変となる」と云ふに帰せしむることを得るなり。即ち我の説きたる微分子の法則は事実にして、是は組織に属し心の持ちかたにてさとれば不変となり、さとらずして霊光に浴し居らば変となるも事実なり。微分子の集りの組織は尽きず。さとりは作用なるに依て変となすも無変となすも自由なり。故に此霊光の作用は飽く迄も使用することを得れども、霊光に浴するを得ざるなり。是に依て大要はさとりたるならん。然しながら充分とは云ひ難し。されど今後教主の御講義にて追々説るるを聴けば自ら諒知しさとること必定なりと信ず。汝等かしこみて待つべし。既に教主は出座せられて待ち給へり。我、傍に退(さが)らん。
 

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