覚者慈音765  光明論上巻 巻の一  44番  テツシン貴尊講義

覚者慈音765
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の二     
                        
                  テッシン貴尊講述
                  2019.1.1
                  第43番


教主出座、礼拝低頭


 霊光は無極無辺にして絶大なれども、其作用の力は臨機応変なれば一様ならず。大となり小となり高くなり又低くともなる。此理をテッシンに依て詳細に聞けよ。


 教主立座せられず。


 教主は立座し給はず。我を支援遊ばされて更に霊光の偉大さを説き給ひ、然して霊光の闊達自在なる働きを説き給ひたり。さて講義に入るに先だち汝等に注意しをくことあり。汝等ややもすれば霊界と霊光の区を混同し同視すること勿れ。今教主の申されしは霊光にして先に仰せられしは霊界なることに思ひ至らば其区は明白なり。依て注意す。
 霊光は無極無辺なるによって働く力も従って是に順じて無極無辺ならざるべからず。さらば大にも通じ小にも通ず。もとより何物たりとも嫌ひなく高きにも低きにも和する力あるに依て善悪の区別を問はず、又嫌はざるは前述したる如し。我、先に述べたる微分子細胞等の学理を究むれば汝等にも人間或はすべての動物の肉体其儘を真に形づくるを得ると事は難きにあらず。又是に電気作用を働かすれば或程度迄立居振舞ひもなさしむることも不可能にはあらざるなり。然れども此人工人間に修養をせしめて真の人間たらしむることは人間の智慧にてはなし得るは難し。是のみは神の領域に任せざるべからず。又細胞微分子の根原も人智にては造り出すこと能はざるは勿論なり。
 或人蛇が蛙を呑みて後、草を喰ふを見て己も好物の餅を沢山食し、苦しかりしにより良きことを見たりと思ひて其草を食せしに、己の身体は融けて餅は残れりと云ふ笑話もあり。又芋汁(とろろ汁と俗に云ふ)をあまり沢山食し苦みに堪えかねて消化薬を用いて死したる例もあり。然りとせば薬は毒より生ずるとも云ひ得らる。汝等は病を治するに毒を薬と化せしめ居るとせば薬も毒と化せしむる事を得ん。悪魔は霊光を毒に化せしめて用い、神は薬となして用ゆ。されば霊光を神より受けたる汝等は薬としての恵を受けて病気に悩める心の苦痛は治癒されたる喜悦を感謝せざるべからず。汝等此処に留意して考へ見るべし。貪欲の心は薬石の量を多く用いて毒に化せしめて身体を損ふ。されば分度を計りて病に適する量を用いざるべからず。食物も余り多く摂取せば消化器を害して営養を吸収するを得ず。物には程度あることを反省せざれば雲上の行者の如く墜落の憂目を見るなり。愚者にも愚者の霊光あり。賢者に賢者の霊光、男子に女子に貧者に富者に高きに低きに対して皆其々に適当なる霊光は輝く。然るを其分度を超ゆる時は身を損ふは薬石の量を過すに等し。愚者は賢者の分を犯さんとせば恥多くして滑稽となるのみなり。貧者は富者の真似をなさば借財を重ねて労する罪を犯すに至らん。故に霊光に任せて背反かずば何等恐るるに足らず。徳は次第に積まれ行かん。

 汝等は自在論によりて気光素と云ふ娑婆言葉を教へられて何か一つの焦点を得て学理より観察せんと計り居りしをミキョウも我ももとより知りたり。又斯く説きて汝等を覚らしめんと計りしはミキョウの智慧なり。ミキョウは汝等の誤れる信仰を封鎖して真に正しき信仰に導かんと欲する苦衷を我は知りて彼に力をかさんことを誓ひたり。然るにミキョウは是を聞きて喜悦び、教主の出座を我に申し出でたれば、我教主に願ひしに快くうけがひを得て今に至りしなり。ミキョウ今はセイキョウの苦や思ふべく其慈悲や敬ふべし。率爾になすべからず。

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