覚者慈音763  光明論上巻 巻の一  41番   伊東慈音

覚者慈音763
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の二     
                        
                  テッシン貴尊講述
                  2018.12.31
                  第41番


 そはとにかく霊界に入りてすら集合分散ありとせば、汝等考へを新たにせざるべからざらん。何となれば先に教主が説かれたる霊光に帰らば、生老病死苦の憂ひなきことを申されしに、今集合分散ありと仰せられたれば生老病死苦のまぬがれ難きにはあらざるかと云ふ質問も生ずるならん。信仰うすき汝等として無理ならぬ質問なれども其不安は無用なり。微分子が増減変化あればこそ新陳代謝は行はれて生老病死苦は免がるるなり。又我等は汝等の肉眼或は心眼に様々の姿を作り出し見するも此微分子をたくみに応用して出現さする事を得るなり。此理を簡単に説明すれば活動写真の如く、声は蓄音機の如しと考ふれば可なり。即ち無線電気の応用なり。外国にて心霊学などと称して悪戯するは種仕掛による作り事多し。霊と握手するなどは催眠術を応用すると、又種仕掛あるとの二種ありて斯る事は論ずるに足らざるなり。講義は又も枝葉にわたれり。元に復すべし。
  教主が仰せられたる対光とは相対とか、或は絶対と云へる対にして、光は霊光の意味を現はす光なり。ミキョウが前に語りたる空源体性の事なり。是を対光と説かれたり。此対光はもとより微分子を作り出せる母にして無極無辺なり。教主が霊光は無極無辺と仰せられしは対光は無極無辺なるによりて霊光も無極無辺と申されしも、作用と微分子の集合分散の区別あることの相違を説かれたるにて不変には何れも同様なりと知るべし。ミキョウが、先に話したる空源体性は即ち神通力、或は教主の説かれし対光にして、気光素とは霊光と考ふるも差支なからん。若し対光なかりせば霊光は輝かず。太陽も汝等の世界も生ぜざるならん。されば神も人類も無しと云ふ空に帰せば如何なるかを考へよ。空櫃(からぴつ)の内を眺め居るよりも尚無味乾燥なるべし。物あり形あり作用あり労力あるに依って趣味も出で希望も湧く。されば人は希望より希望へと進むところに楽を求めるにてはあらざるか。然らば其希望とは如何なるを云ふかと聞けば未来の変化なるべし。よく聞く処なるが我、今斯る業をなし居るも先に至らば立身せんと云ふにはあらずや。此立身と云ふは一歩にても他より擢ん出んとするならん。嬰児時代より此傾向あり。高き処に上るを喜ぶも此現はれならん。優越観念と云ふも変化なるべし。彼は一種変りたる人物なりとて或はもてはやされ、或は爪弾きさるるも却て是を得意として喜ぶあり。千差万別の世界に拡げられあるよりて世は面白しと云ふならんか。老人曰く、今迄ながらへ居るとも少しも変りたる事なければ死するがましなりと。是に依て見るも人は変化を希望し居ること明白なり。汝等は其希望の世界より上げられて霊光の世界に進みて反対に今迄ありたる地球を見て如何なる感想が胸を打つや。未だ肉体を有するによりてさのみ新しき感想を喚び起さずと答ふるならん。其心構へにて修養修行しあることを教主は知り給ふによりて、是未だ覚らざるによりてなりと仰せられたり。即ち覚りたる者より判定を下すならば、集合も分散も霊界には無しと云ふ体験は得らるるなり。よく味はひよく意を用いて深く考慮を廻らし見よ。

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