覚者慈音761  光明論上巻 巻の一  39番  テツシン貴尊講義

覚者慈音761
未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の二     
                        
                  テッシン貴尊講述
                  2018.12.27
                  第39番


教主出座、礼拝低頭
教主曰く、


「集合と分散は霊界にもあり。是未ださとらざるに依てなり。対光は集合ならねば分散せず。故に永久不変にして尽くすことあらじ」


教主 立座、再拝低頭


テッシン貴尊講議


 風叢林(そうりん)を洗ふ時、汝等の眼はこのなびく姿を追ひかけて見る。風すぎて元に復せば汝等の眼も元に復して静寂となる。風と眼と何の関係も無しとは云ひ難からん。集っては去り去りては集る。風に依て眼も動揺したる処に何か真理の発見するもの無かるべからず。汝等空吹く風にすら眼を向くる力の具備あるに不拘、唯風がとのみにて敢て修養の資料心の智慧の養ひにせんと考へず、又唯見逃し居るならん。もし是を心眼にて見つつありしならば何か得る所あるを知るなり。唯吹く風の中に送られ来る様々の物資が地上或は草に木に置かれて他のものと化合して更に新しき姿の物が作り出ださるるを見ば、吹く風と無関心にては見過すこと能はざるべし。人は母の胎内に宿り一日一個の細胞が集合して組織され居ると計算せば二百八十八日にて完成せらるるなり。母胎に長くあるものは健康なりとは云ひ難し。聖者は母胎に何十年ありしとか生れたる赤児の毛髪白くして老子と名附くなどとは信ずるに足らず。生れし時毛髪の白き赤児はあるなり。そは血族性関係より一種の奇形児なり。長くて一ヶ年或は一年と七八ヶ月母胎にあるは信じて可なり。二三年間胎内にあるとせば不虞児か或は死したるならん。講義は枝葉に入りたり。元に復す。
 赤児の生れ出づる迄種々様々の必要なる細胞が集合して組織せらるる如く、凡ては物と物との集合によることは汝等は既に知る所なり。同じ液体燃料に於ても石油ランプは燈心をこがし、酒精ランプは燈心をこがすことなきが如く、集れる要素に依て肉眼にて見たると心眼にて見るとの相違もここに在り。酒精と石油は肉眼に見るも同様なれど作用の上に相違あり。されどもし心眼に依て見る力あらば是は同一の液体にあらざるを看破するを得るなり。汝等肉眼は地球に受くる太陽の光を基礎標準として見つつあるに依て凡ての色は太陽光にて定め居れど、其見る処の色は果して正確なりや。然りとせば大空に上昇して地球を完全に離れて太陽の光に照し見ば必ずや地上の色とは異なりあるを知るならん。斯く実験して観察せば一個の色に対してすら其真をたしかむるを得ざるならん。地上に於てすら朝日の出に見る色と日中に見る色に於てすら相違あり。まして大空に到ってをや。斯る理より考へを廻らせば肉眼は如何にとも化せられて真を看破なし難しとの結論に達す。然りとせば心眼ならざるべからず。とは云へ是等は物と物との集合より来る現象にして、肉眼は偽はりを見たるにはあらざるなり。又太陽も偽はりを照し居るにはあらざるなり。教主の仰せられし集合分散は霊界にもありとの言葉を聞きたる時、我も冷心を止むる能はざりき。何となれば此論旨を汝等にさとらしむるを得るかと云ふ不安より冷心を感じたればなり。汝等直線を引くは難かるべし。光波に於ても亦然り。光は屈折するに依て適確なる計算はなし得ざるべし。さればこそ太陽と地球の距離に於ても誤算し居るにてはあらざるか。又汝等虚空に一個の石を投げ上げて圧力尽きてのち数秒間その石を空間に止むることを得るや。斯ることはなし得ざるべし。然るに宇宙には算へ切れぬ数多の星が生滅して其位置に止まりあるさへ奇とせざるにはあらざるか。もとより圧力とか引力とかの理屈は小児と雖も知る。然れども是を深く追窮すれば学者も当惑するは勿論なり。事実と学理は未だ一致を見居らざればなり。我の冷心せしと云ひしもここにあり。汝等肉体を有するが故に大空の論旨を語るに必要なる資料は汝等の世界に乏しければなり。依て少時ためらひしに教主は是を覚り給ひて我に教へられたれば以下はその儘を伝ふべし。

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