覚者慈音60 大霊界 如意界終はりて後は如何 その三  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱                                NO 20   
如意界終はりて後は如何   その3               
                 
                     教主寛大 講述


 テッシン、セイキョウは衆人に告ぐるに、信は拝みなりと教へしに対して、諸子は認識なしたるや。我の見る所にては、汝等の拝みは願ひなり。信を得んがための拝みにあらず。願ひの拝みは他に対して、己の希望を成就せしめよと云ふ、依頼に他ならざるなり。是は正しき拝みにあらず。拝みする心は信を強うする方法を云ふなり。信ぜずば拝みにあらず。疑ひの拝みは退くなり。この理より考察すれば信疑も拝みのうちに含まれありて、疑ひを去らしむるための方法を、信ずる拝みと云ふ。疑ひを去らしむれば、信の拝みは得られて、進む方向に向かふと知らば可ならん。兎に角進む方向に歩を運ぶことによって、信の拝みとなるなり。汝等衆人の肉体は日々拝みなし居るにてはあらざるか。朝に食ひ夕に眠る。是拝みなり。其は肉体の拝みにして心の拝みにあらず。肉体は拝みをなして心は拝みをなさざれば飢ゆるの他なし。心の拝みとは修養の法なるべし。然とは考へざるや。天界は広大無辺なり。地球は長からず、軈ては亡びん。亡びざる天界に入らんとするならば、何を以て是に到らしむべきかに思ひを廻らせよ。肉体も亡び地球も亡ぶ。されど何ものか亡びざるものの残存なし居るとは考へざるや。空は亡びず。亡びざるが故に今尚新しき世界は、現出なし居るにてはあらざるか。太陽系宇宙は明滅して現はれては消え、消ては現はる。されど空は平然として変化することなし。汝等衆人の住む太陽系宇宙は何日は亡ぶることあり。広大無辺の如く考へらるる太陽系宇宙に於てすら、斯くの如き結果は何日かは来るなり。されど空は空にして永久不変なり。終始の定めなきが故に亡びざるなり。この理あるによって汝等衆人に与へられたる魂は、終始なき空なるが故に亡びず。永久不変なることの理も察せられるならん。我もテッシンもセイキョウも亡ぶることなき境涯にをかれて、任務に順じ居るが故に、永久安らかにして危ふきをまぬがれ居るなり。学して理を究はめんことを冀ふべし。冀ふと云ふは依頼にあらず。我の語る冀ふの意味は、信の拝みをなせよと云ふことなり。安きに進みて危きに退くことなかれと云ふ意味の言葉なりと知るべし。迷ひの心は危き方向に退くが故に、依頼の拝みとなるなり。故に我より衆人に対して進めよと云ふの意味を、冀ふと語りたるなれば衆人が思ひとは異なるにて、依頼にあらずと知るべし。兎に角進めよと云ふの意味と知るべし。聊かまぎらはしき言葉となりたり。
 そは別として諸子は拝みを願望依頼と混同して、行ふことをなし居りては、真の信仰は得られざるなり。元来衆人の生活は拝みによって日々生存なし居るものにて、すべてを拝みに帰せしむることを得るによってなり。此事あるによって何か事故ありて、その事柄に対し云ひ現はさんとなすとも言葉に組織するあたはず。果は拝みたき心に変ることもあらん。例へば思ひもよらぬ危機に逢遇して、それをまぬがれたる時など、名伏すべからざる歓喜に打たれて、唯訳もなく湧き出で来る心、その場合言葉にては到底云ひ現はし難くして、唯黙して拝する場合もあらん。この心を起すは即ち日々の生活が拝みなりし結果に基く。これを無言詞の感と云ふ。この無言詞の起り来る理由は平素の拝みが向上して、その結果を得せしめたるに他ならず。遠方に友あり、その友の消息を安否を気づかふ心が、彼の友にも通じて友より信書を受くる等のためしもありしならん。是等も皆無言詞のあらはれなり。所謂無形が有形を生み。然して其より其へと伝はり行きて、全宇宙は組織せられて一体化なし居るため、無言詞には距離と云ふもののあらざるなり。終始なき全宇宙なるが故に、距離はあらずして一体化なし居るによって、無言詞界は遠近の区別あらざるなり。衆人が遠方の友と思ふも距離なければ、同じ場所にして遠き近きの区別なきが故に打てば響く如く思へば通ずるなり。是を名づけてえにしと云ふ。彼の肉体と我の肉体と区別せらるる如く見ゆれど、仔細に是を思惟せば彼我の区別はあらずしてすべては一なり。この理によって五大鏡は組織せられあるなり。是即ち立体鏡の原理なり。

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