覚者慈音701  未知日記 第四巻  心霊雑話  伊東慈音

覚者慈音701
未知日記 第四巻      
心の巻     
      魂の働き、魄の働き  
      其の2     
                   ミキヨウ貴尊講述


 ともあれ人間の生れたる以上、真の人間の道、人たるの道を歩まば祈らずとも自ら神の道は得らる。然るに我儘の動物の道を歩見ながら、神の道を求むるとも得られざるは当然なり。我、汝等に霊の話を語るも、汝等に面白しとか、又不思議なりとか一時の興味を誘はすを目的として語るにあらず。動物性本能を脱せしめ、真の人間性に、更に進んで神の道に導きて、永久不変の境涯におかんことを欲するのみ。
 魂魄を正しく養育するは神より授かりし恩恵に答ふるの業にして、是即ち人としての正しき使命なり。されば魂魄と霊と一体ならしむる法を修めざるべからず。是を修めんが為には三気の其々が具ゆる特徴を究めざれば、真の法を修むるは難し。されば汝等は此理を悟りて真剣に憶え且つ工夫して不退転の居を求めんことを願ふべし。仮初(かりそめ)にも一種の興味に誘はれて霊の研究とか、或は精神科学とか称して無意義の考察をたくましぅして、根拠なき空論に囚はるることなく、三気の一大事を究むるこそ肝要なり。我、聊か枝葉に渉りて本論に遠ざかりたり。話をもとに返すべし。
 魂はもとより陽に属するが故に発達も従って旺盛なり。故に事の善悪を問はずして盲進する性質を有す。然るに魄は常に魂を補佐して従ふ。そは陰に属するによりてなり。魂は右せんとせば魄は左せんとと云ふ如く、常に反対の姿を見す。故に悪を犯したる魂を責めるは魄なり。良心の呵責に責めらるると云ふは、魂魄の争闘を云ふなり。然らば魄は善良にして、魂は悪否なるかと云ふに、然にはあらず。魄は悪ならば魂は善となることもあり。されど魄は慈悲に合ひ、魂は罰に合ふを以て大抵の場合、魂は善悪共に先んずるなり。即ち魂は破壊と分解を保持し、魄は融和と組織を司どればなり。怒り悲しむは魂にして、喜び娯しむは魄に属す。
 例へば怒りて鞭打たんとするは魂の業にて、是を宥(なだ)むるは魄の業なり。故に魂と魄とは夫婦の如くなる関係あるなり。三気を仏教にては仏法僧の三宝と名づけ居るなり。此三つの宝を動物性に終らすは勿体なきことにはあらざるか。唯肉体の欲求のために三気を永久にあやまらしむる行為こそ、慎みの上にも尚慎むべきなり。


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