覚者慈音649  未知日記 第一巻  行法    伊東慈音

覚者慈音649
未知日記 
未知日記 第二巻  行法    
第四     生死の点を外せ     
      その二
         
                 テッシン貴尊講述


 我、慈音に告ぐ。無神論者の説を汝に語り居りし時、日蓮と称する悪魔汝に来りて、我を悪魔と罵りたれど、汝よく耐えたり。彼は真の日蓮にあらず。若し真の日蓮ならば我も亦汝に至るべし。我、汝の信を試みんとて黙し居たるなり。今後も斯る事が多かるべし。如何なる事あるとも迷ふことなく、心身を労すること勿れ。汝の脈を止めしも悪魔なり。汝の心肉を害して信仰をさまたげんと計ることもあらん。恐るること勿れ。悪魔は如何なる手段に出づるも是を追ひ払ふこと易し。然れども是を忍びて勝ちぬくことによりて汝の信仰は愈々(いよいよ)高くせらるるによりて我は悪魔を追はざりしなり。
 無神論者は曰ふ。生あらば死するは当然なり。考ふる要なしと。彼の言葉は真なり。されど彼は真の生死を知らざるなり。我の語る処は生にみあらず、又死にもあらず。動物性を死なしめて人間性を活かしめよと云ふに尽るなり。斯く説かば汝等は何の事かと云ひてかばかりの事ならば、我は斯くて知ると云ふならんか。然れども尚汝等は人間性と動物性との区分を明白に知らざるが故に迷へるなり。汝等が人間性と考ふることに動物性なる事多し。
 例へば汝の友甲が、汝の道の人乙と争はば汝は甲につくならん。是即ち動物性なり。汝等は思はん。知人なれば彼につくは人情なりと。そは然らず。真の人の道は唯この争ひの理非曲直を明らめて、相方の融和を計り、一層深く甲乙の交りを厚くせしむるは真の人の道と云ふなり。斯る例は数ふればいとまなし。兎に角生死の論旨には容易に説き尽すことを得ざれども、要訣は点を外すことなり。生死の間にコンマある事は零点零の理に等し。何処の宗教に於ても祈りとか、拝む場合、眼を閉じ耳をとづるは一般の習慣なり。汝等も神仏の前にては眼耳をとぢ手を合せ頭を下ぐるにてはあらずや。もし神が外にありと云ふならば、眼を見はり耳を傾むくるにてはあらざるか。そは神を怖るるが故に見ざるよぅ、聞かざるよぅ慎むの礼なりと説くは方便なり。人間はものを考ふる時、眼をつぶるも自然の現象なり。
 神を祀れる所にて眼耳を塞ぐは己の親を求むるなり。汝等が親は汝にありて尊きなり。この尊き親に見えんと拝むなり。汝等は家の神仏を信ずるなり。その何々様と云ふは、汝の親なることを知るべし。汝の親は汝を離るることなく、常住坐臥汝と共にありとは
ミキョウも既に汝等に語りたり。零点零の点を取らば、此親と常に談合することを得るなり。点を外すことを仏教は覚る即ち隔をとると云ふならんか。
 


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