覚者慈音650  未知日記 第一巻  行法    伊東慈音

覚者慈音650
未知日記 
未知日記 第二巻  行法    
第四     生死の点を外せ     
      その三
         
                 テッシン貴尊講述


 生死の間にさとりあれば、生死一如となりて生死なしと云ふにてはあらずや。その点即ちコンマは間なり。差なり。少しの隔に見ゆれど、然にはあらず。此点を外すには生死の区分を明白にせざるべからず。生の執着強ければ、生点死なるを以て死は低きゆえ、死を生の位置に迄引き上げ、生と同一ならしむれば点は消滅す。又悲観して死を欲するものは、即ち死点生なる故、生を引き上げて死と同一ならしめざるべからず。
 又動物性と人間性に於ても動点人なるか、或は人点動なるかをたしかめ、何れか低き方を引き上げ同一にして点を外すなり。是に反し高き方を引き下げて点を払ふ法もあるなり。ここに注目すべきは死点生に於ける場合、このものは病的現象が大部分なる故に、他より是が点を外しあたふるにあらざれば、自力にては不可能の事多し。是は後に順次説明すべし。


死、生のコンマをとる方法のうち、最も簡単なるは先ず朝夕に行ふ事にしてきわめて平易なることなり。朝目ざめたる時、床の上にて端座して手を組み眼をとぢ。心を整え口の内にて云うべし。
「我、今日死せよ仰せあらば潔く死すべし。死するも決して悔いることあらず。」
との意味を述べよ。是は即ち昨夕安らかに眠りし悦びを感謝し、今日何時死を賜ふとも悲
しみなく、未練もなく喜びて逝く事を誓い、夜眠る時にも同じく床の上に座して、今日家
業を営みし喜びを謝し、更に眠れる間に死を賜ふとも尚喜びて逝かんことを申すなり。
 
 点を外す法には即ち四線の法則により、物と物との融和によりて同一ならしむれば、点は相互より圧せられて消滅するなり。例へば壮者と幼児の間に於ける場合、壮者は幼児の程度迄引き下げずば、幼児は壮者に笑顔をむけざるは人のよく知るところなり。是等は高きより低きに差を減ずる方法なり。又運動競技などの応援は弱者を引き上げる法力とも云ひ得らるべし。この他種々なる法あれども、四線の応用に従ひて工夫せばむづかしきあらず。
 人間最大の悩みは生死なり。故に我特に汝等に生死の点を外せと求めたるなり。人は生死を超脱して初めて動物性より真の人間性に入ることを得るにて、生死に拘泥しては到底人間性に進むことを得ず。生死を越えて初めて人間性に進むことを得るなり。故に生死を明らめると云うことは生死を融和さすことにして、即ち点を消滅して差なきに至らしむる方法にして、朝夕油断なく今迄説きし行ひをなし居らば、点は自ずと消えて生もなく死もなき境地に達することは明白なり。我、誓って是を保証す。
生死完全に和すれば真に自由自在に物事は正しく行はれ、ここに至らば悪魔も犯すあたは
ざるなり。法と云えば今習いて直ちに行はば忽ち効果あらはるるは神の法の如く思ふが故
に、習いて容易くなしあたはざれば、他に法を求むる故、悪魔は是を知りて遂に其人を犯
すものなり。注意すべきことにこそ。
 餓えたるに食を与ふれば即座に治癒す。是も法なり。病む者には薬を与ふれば善し。是も法なり。行なり術なり徒に迷ふこと勿れ。薬は神の作りしもの、食も亦然り。唯用法の正しきと正からざるとの相違あるによりて、正となり又不正となるなり。呪魔術は如何に効ありとも万人悉くなし得るものにあらずと知らば、徒に斯る法を学ばんとするは愚なることなり。よしや学びて是を誇らば却って動物性に堕ちん。心すべきことどもなり。早く動物性を捨てて人となれよ。

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