覚者慈音639  未知日記 第一巻  行法 行法の大意  テツシン貴尊講義

覚者慈音639 未知日記 
未知日記 第二巻  行法    
第一 行法の大意
           其の2    
       
              テッシン貴尊講述


 気の素、光の素の力を説くにあたり、先づ心得おくべきは行法の大意なり。所謂行法は業なり。行なり。又巧みなり。此三つの法を総称して行法と云ふ。業(わざ)の力行の力巧みなる力は行力にして、力は法に依って現はる。行の範囲は広くして一々是を説くは容易の事にあらず。然れども汝等が望むところの行法と云ふは、神通力によりて得る処の霊の働きを欲するならんと思ふなり。即ち人間の神に縋らんとする道の行を望むにあらずや。然りとせば其業其行其巧の方法を正しく認識し、その道を正しく歩まざるべからず。
 一歩誤れば邪道に踏み入りて身体の自由を失ふの結果となる人界と天界と自由自在に往来をなす者の言は真なり。然れども斯くなる者はあらじ。皆自己の知識の予測にすぎず。斯る事の説を信ずるは迷いにして取るに足らじ。たとえ理に合ふとも信ををく事勿れ。
 生るれば死す。是正しからずと云ふ者なし。其は事実を示めし人も知り。我も知る真なり。されば此魂は何処に帰るやと聞かば、是には種々の論議ありて一様ならず。或者は肉体と共に亡ぶと云い、或者は不滅と云ふ。然らば何れが正かと仔細に是を研究なすとも、事実を知るものあらざれば、信ずる事あたはざるは必然なり。先づ自己死して始めて其何れかを知る。斯る有様なるを以てして尚其後の事を究めんとするは、笑止の沙汰なりと云ふも過言ならず。先づ天に昇らせんとせば、其梯子(はしご)を確固にして倒れざらん事を計りをかざるべからず。故に霊魂は滅するか、或は不滅かを知るべし。
 肉体はすべて胞子の集合にして、其働きには限りあるを以て、時至らば悉く其分にかへる。是を死すると云ふなり。此処に至って肉体の姿は変じて影を止めざれども、集合より分散せる各々の胞子は滅せずして尚他に転じて働くならん。肉体に於てすら尚斯くの如し。まして霊魂に於てをや。故に霊魂は不滅にして、肉体も不滅なりと断ずるも亦根拠なしとは云ひ難し。
 霊は空なり。空より入りて空より出づ。何ぞ滅亡するあらん。唯汝等は霊を汚損することを慎まば可なり。霊に従ふものは心より生ずる汚れなればなり。霊はもとより清くして濁りに染むにあらざれば、払へば直ちに清くなるなり。行法の大意をここに一言に尽すならば、心霊を清くせよと云ふに止まる。
 汝等が住む日の本は古より万民が一君に奉仕するが故に、其気光素の働きを増して、神通力を拡大し、元寇の国難に際しても、十万の兵を一瞬にして海中に没せしむ。然れども当今に至っては稍々動乱の傾向を見る。今一億の民草が心一つに君にかへさば、気光素の増大によりて、受くる処の神通力の力は如何に大なるかは、推して知らるべきにうたてき世とはなりぬ。

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