覚者慈音628 未知日記 第一巻  自在論    伊東慈音


未知日記 第一巻  自在論    伊東慈音

第四章       四線の応用
第四節          其の1



              インショウ、ミキョウ貴尊講述
               
 我説く処は決して眼新しく、又耳新らしき事を云ふにあらず。皆其々の行者に依りて成し遂げられたる事どもなり。然れども修行者は己の党派に帰せしめんとして、様々に枝を曲げ葉を切りなどしたる為に、自然の姿は失はれ、本来の面目を失ふに至りたるなり。弥陀と云ふは空源力を現はし、勢至観音は光体性気体性の両性を現はせるに他ならず。四種とは四線の事柄なり。故に弥陀、勢至、観音は姿あるにあらざるなり。
 人は人間を中心として物を考ふるが故に、形あらざれば何事もなし得るものにあらずと思ふなり。是を動物性本能と云ふ。偶像を拝するも是が現はれなり。故に霊界の事を語るも容易に会得し得るものにあらず。肉体中心、物体中心、物体本位より早く浮き上らざれば、精神の修養及び霊界を体得するあたはざるを以て、先づ肉体観念物体観念より離るべきなり。
 組織も破壊され、又組織さるる原理は、相対性はもとより破壊性なれども、陰には融和組織が控え居れり。又気体性も同様組織なれども、陰には分解破壊ありと知るべし。故に四線は両性にありて完全に結合すると思ひて可なり。此理より方法を工夫するにあたり、先づ肉体を離れて考へみよ。然せば肉体も肉体と霊とは別々となる。別々とならざれば此真の理は究め難し。肉体は地球のものにて、何れは地球に帰するなり。霊の姿は空に帰すが故に姿なし。姿なくして働くは何故ぞとの疑ひより工夫するなり。決して種々の形態に囚はるる勿れ。宇宙は全宇宙より見る時、地球は空間に浮遊する塵埃にすぎず。人間は此塵埃に宿る細菌にすぎざるなり。然るを知らず、宇宙全宇宙を究めんとするは、屋根に上りて星を落さんと計るより尚愚なる事なり。推理には何物かの材料に依るにあらざれば、その理を究むるあたはず。然るに霊体は空にして何物をも資料に供するものなし。故に霊界を究めんとせば、肉体本位の肉体観念、物体観念より離るべきなり。昔は神は人肉又は動物を犠牲にして其香ばしき香を喜悦ぶと教へて信ぜしめたるも、今日斯る事を信ずるものはあるまじく、如何に道理ありとも諭すとも信ずるものはあるまじ。又斯る説話を求めずとも神はたちどころに必要なるものは何物をも得せしめ給ふなり。


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