覚者慈音628    未知日記 第一巻  自在論 四線の応用  ミキョウ貴尊講義

覚者慈音628 未知日記 第一巻  自在論    伊東慈音


第四章       四線の応用
第三節



              インショウ、ミキョウ貴尊講述


 財の蓄へ多くして安逸を貪る人は死の恐怖におそはれ、貧しくして安定を得ざる人は生のために苦しむ。されば生死は不安と恐怖なり。其両者を成就すれば、生死の苦は無きか。老人曰く、「我若きより娯みは悉くなせり。財も貯へあり。子孫も多し。年齢も長寿なり。今は浮世に心残す事なければ何時死するも執着なし」と語り居る時、俄に地震ありけるに、老人慌てふためきて逃げ出せりと聞く。人間はすべて斯くの如し。生死を明らむるにはかばかりの事にて悟り得るものにあらず。斯る事は机上の空論に他ならず。真に生死を明らめ得たらば、今肉体を離るるとも、今如何なる時にても動ぜざる事こそ真の明らめなり。死は厭はず。されど臨終の苦を厭ふと云ふ。是死を怖るる代名詞なり。生死を超越せんとならば、四線の法則を明らめ気体光体の二性を正しくせば、真の光明に充たされて生くるよし、死するも亦可なりとの境地に到り得て、生死を考ふる事さへ無きに到らん。
 生死を明らむるには唯生には死あり。死には生あり。生を追はば死、背後に迫り、死を追はば生又迫る。恰も車の輪の如しなど簡単に片付けらるるものにあらず。今汝の眼の前にせまり来れるは死かはたまた生か。光陰は刻一刻を刻み居るや。破壊か組織かの別れ目に立てるにてはあらざるか。
 例へば今我かくなし居れど寸刻にして、死すべしと知らば、平素と異ならざる態度にて有難しと謝礼の言葉する余裕を持ち居るか。死も生も何れにてもよし。旅行すると宅にあるとの相違なりと考ふる力を養ひありや。旅の身支度は整へるや。天より来れと命ぜらるるか。地より下れと引かるるかを知るや。もし死後に齟齬あらば其に依りて苦みを受くるも可なりと云ふ覚悟も整ひ居るや。生るれば死す。死すれば生るると云ふ事は是生死は天よりの自然の理にして人力の及ばぬところ、死なば死ね、生くれば生きよとの真の悟りあらば、四線の法則は会得したるなり。
 我、ミキョウ、魂の世界に在りて此理論をなす。然れども霊界の実状を語るとも、汝等には理解するあたはざるは必然なり、地球上に住めるもの如何に学問工夫すとも、霊界に進むにあらざれば知る由もなし。又知らずとも霊界も人界も、神の道に変化なければ苦んで霊界の事柄を知らずともよし。汝、慈音の立体の鏡にて見たるものは皆霊界に住めるものなり。
 唯父母よりは霊界の道理を悟らず、又父の教へに従はずして我心の欲するがままの振舞をなしたりとも、霊肉分離の後、宙に迷ひて彷徨ふもの其数を知らず。斯る次第にて永久に迷ひに迷ひて安定する事あたはざるは不便なる事どもなり。我等迷へるものを救はんとして近寄れば怖れて逃げ惑ふ。故に救ふことすら得ざるなり。中には地球に帰らんとして他の界に入り苦の限りを味はひつつある者もあり、恐ろしき事ならずや。
 空源力神通力に依りて得たる四線の綱を、気体性光体性の二性の船に結びつけて、気光素にて舵を取りながら、空源力神通力の綱に縋りなば、安らかに霊界のものとならん。其以後の事は説くに要なし。
 唯普通の信仰にて神通力に縋るとも手を離さば空に迷ふなり。されば四線の方法として何を破壊すべきかを考ふれば、先づ゛一切を潔く捨つべきなり。捨つる方法は如何にすべきか。我と我ものと云ふものありや。頭は頭のもの、顔は顔のもの、霊は霊、心は心のものにて我ものと云うへるものは我なりと思ふならん。然れども我を生みたるものは親なれば、是を親のものとせば我も無きなり。斯く考へて其々に返へさば我も無なり。唯残るものは神の力のみなるによりて、ここに始めて分解の道は開らかれるなり。神の力に依らざれば、生死を超越する事を得ざるなり。我心に囚はれて己の智慧に依って決せられるものにあらず。世には責任感とか、或は生の苦痛に堪えかねて自殺する大馬鹿者もあり。是等は組織の破壊にあらずして破壊的破壊なれば、宙に迷ふ輩とならん。神の世界、霊界は自殺を固く戒しむ。是は組織の破壊にあらざればなり。一物も無き迄破壊したる時に始めて現はるるものは、真の我と其親なり。是即ち組織より自然の分解の意義に合ふなり。即ち地中を破壊して三個の球を得たるに等しきなり

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