覚者慈音50 未知日記講義第一二巻  大霊界 巻の壱 汝に大学者を送るべし   教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱                                NO 10「汝に大学者を送るべし」                                                                    教主寛大 講述


 聖者の言葉と雖もその一々が正しいとは云ひ難し。七才の少児なりとも正しき言葉は正し。是を理解する智能なきものには如何に千言万言を以て語るとも、さとりは得られざるなり。故に信仰の大事は那辺ありやをよくよく考慮せよ。慈音の妻は云ふ。「汝は健康なる肉体なりしに不拘、かくも虚弱となりたるは、何かのたたりならずや」と語り居るを我は聞きて、彼の妻にして此言葉を口にす。まして他人は是と同様の思ひなるべし。世の中は余りに無智者の多くして、理解力の乏しきことには寒心の他なし。汝等衆人は肉体を有する間は、肉体の信仰にて可なりと誤認する勿れ。斯かる信仰なし居りては、何時かは動物性より度脱すること難し。早くめざめて人間性を育つるにあらざれば、天の使命を果たすことあたはざるが故なり。人間性を育てしめんと思ふが故に、動物性の肉体を授けられ居ることと思ひて、動物性によって人間性を育つる事に留意せざるべからず。是は最も大切なる事なるによりて、かくもくだくだしく語り居ると承知せよ。動物信仰を離れて、精神信仰に思ひをおかずば、真の人間とはならざる故に、従来の信仰を離れて精神信仰に歩を進めずば、天界へは移り難し。よくよく反省せられん事を望む。
 我、斯く語る時慈音は云ふ。「仏教は小乗大乗の区別ありて、肉体信仰には小乗を用い、精神信仰には大乗を用い居るにてはあらざるか。然りとせば両々相まって、世の建設を計り居ると思ふが如何に」との質問をなしたり。是に対して我、答ふるの要なしと一言にて質問を退けたり。是等に関しては今後我等が語る教へを受け居らば、自づと理解することを得ん。兎に角円海の如く事実の経路を踏みて天界に来りて、任務をなし居る者のあるに引き換え、仏教者の多くが皆其々魔界に転落なし居る者の多きを見ても知らるる如く、大乗仏教には余りに錯誤多くして、みな嘘説を実説の如く教へ居るが故に、結果に於て相違を醸し居る事の多きに徴しても明らかなるによってなり。事実を知らずして推理力にて教へをなし居るため、その推理力が適中せずして誤てる方向に曲り居るが故に事実に反す。円海の如く事実より教へをなすにあらざれば全きは得難し。円海は事実をそのままに汝等衆人に語り居るによって、彼の教へは正しくして誤っことなし。我、光明論に於て慈音に対し、
「汝に大学者を送るべし」と約せしは、円海を指したるなり。
 すべて仏教の教へは余りに推理力をたくましくして、虚説を実説の如く説き居るため、却って衆人を迷はしめ居るなり。故に信じて却って魔道に墜ち入るもの少なからず。一時的の方便が却て、永久の苦を招き居る結果を見るは是推理力の、事実に及ばざるが故なり。我、斯く語らば衆人は思ふならん。智慧は如何にすぐるるとも事実ならざれば如何ともなし難しと。尤もなり。されば凡ては事実ならざるべからず。その事実に対して信ををく智慧なかりせば、実も虚となるゆえに信仰は大切なり。その信仰を推理力によって得るにあらざれば、虚実の区別は判明せざるべし。虚実の区別を明らかにせんとせば智慧を増大するにあらざれば、是又目的は達し難からん。推理力と云ふとも矢張り智慧なるべし。即ち虚実の区別を推理力によって明らめ、然して其によって信不信をさとるにあらざれば実を実とし、虚を虚とする信仰は得ること難し。予言者の中には俗に云ふ出鱈目を語りて、衆を迷はすこと多し。たまたま実を実として予言するものもあれど、大旨あやまちたる推理力より予言して、世を害するものあるに徴しても明らかなる如く、空なるものを考ふるには、実より語るもの少なきは空の範囲きはめて、広大無辺なるによってなり。円海が天界のことを細々語り居れど、衆は其を実として受け入るるもの少なかるべし。

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