覚者慈音49  大霊界  天界の人 慈音は現在地上に姿を有して呼吸し居れど、実は最早天界の一人として引き上げられ居る 教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界 現在の宗教者すべて肉体本意の教へをなし居る故・・・ 巻の壱 天界の人  教主寛大講義                                                                    

 円海は仏教の門より歩を進め居りたるため、ここに喰ひ違ひを生じて、幾年かの空しき行をなし居りたることを我は知るによってなり。慈音に於ても亦同様にして、仏教が彼を苦めしこと多き事も亦事実なり。是等は誤解より生じたる結果にて、余りに地球上の事柄を引用して取り入れたること多き故なり。故に修養修業する者、地球上の事柄を一より十迄引用して修養の資料となし居らば、却て妨げとなること多ければ心せざるべからず。人間同士が勝手気儘に作り上げたる法則(おきて)が習慣性となり、その習慣性となりたる事柄が、修養修行の妨げをなし居る事、余に多き故なり。ここに一例をあぐれば汝等衆人の友人が出世して転任したる時、その友人のために乾杯をあげて互いに喜びつつ別るるならん。然るに友人と死に別れたる時の感じは如何! 然らざるべし。悲しみて嘆くならん。是等は仏教道徳の教へが習慣性となり居るところより生じたるなるか、又は彼とは再びまみゆることの得ざると云ふ一種の淋しみより生ずる悲しみか。前者は出世して転勤し、後者は行なりて転勤したるにてはあらざるか。この二つが同一の関係に不拘、前者の場合は喜び、後者の場合は悲しむ。いささか考へさせられるにてはあらざるか。我等の教へと仏教者の教へとにはかくの如き点に対しても相違あるなり。
 慈音は現在地上に姿を有して呼吸し居れど、実は最早天界の一人として引き上げられ居るに不拘、衆人は是をすら鑑別する事あたはざるならん。汝等衆人の世界はかくの如くまぎらはしき事柄余りに多し。もし慈音にして人格備はり汝等衆人の眼に活仏の如く見ゆるならば、多くの人来たりて彼を敬ひ拝すならん。然して彼の言葉が間違ひ多きことを口にすとも、衆人は信じて疑はざるべし。然るに彼の姿を見よ。唯息の通へる屍にすぎるならん。誰かこれを天界の人なりと云ふとも信ずるものなかるべし。
 もとより是等は一方的に化せられて、空実一体化せざるによって現はるる現象なるが故に、かかる相違を現はしたるなり。所謂現実より見たる信仰と、空間より見たる信仰との相違なれど、衆人は実の方に重点を置くによって、かかる欠陥を現はし居ることは、是みな正しき信仰を知らざるが故なり。
 兎に角衆人の信仰は、動物性信仰を旨として、精神信仰を軽んじ居るによって、永久動物性信仰に引き入れられて、精神信仰の方向に歩をにぶくなし居る結果、何日迄も動物性よりぬけ出づることあたはざるなり。現在の宗教者すべて肉体本意の教へをなし居るため、真の信仰によって教化すること難し。現在の宗教はすべて肉体信仰を語り居れど、精神信仰を教ゆる宗教者は稀なり。
 慈音の如く盲目にして耳もうとく身体の自由すら、他人の手をからずば意の如くならざる肉体を有し、然も五尺に足らざる小男が骨と皮とにやっれはてて、見るかげもなき面影となり居りては、誰か是を天界の人なりと云ふとも信ずる人のあらざるは当然なり。
動物性信仰より彼を見れば、かかるものの言葉を信ずるあたはざるもそは無理ならぬことにて、兎角衆人の信仰は智識の信仰にあらずして、動物の信仰なるが故に、理を理として信ずるあたはざるなり。理を理として信ずる力あらば、たとひ姿形の如何に不拘、信ずべきは信じ、信じ難きことは信ぜざる底の智識を有して、彼に接するならば、彼は天界の人なりと聞かさるるとも、成程然あるかと感ずる筈なり。すべて動物性信仰より、世の中を組織せんと計る現在の世相にては、真の信仰は容易に理解することは難かるべし。是等の事柄を事実によって証明せんとして、我等は慈音をして此教へを彼に委ね居るなり。

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