覚者慈音47 未知日記講義第一二巻  大霊界 巻の壱 釈迦は死して仏を残し、イエスは死してキリストを残す 教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱                                 NO 7                                                     教主寛大 講述



 年長けて推理力の伸びゆくがままに頭をもたげて来るは、即ち魂あるが故に智慧のはたらきは、増大し来ると見なさばうなづくところあるならん。動物性本能の盛なる間は、人間性が駆逐されて芽を出すあたはず。恰も雑草に邪魔せられて成長する力なかりしものが、動物性と云ふ雑草が枯れ行くに従ひて、人間性と云ふ魂を有するものが、次第に発育し来るが故に、推理力と云ふ智慧が増大して、魂と云ふ根を強く下すに至りたりと知らば、魂の在所が那辺にあるかが明瞭とならん。肉体動物性の有する間に地盤を整へ、よく耕やして雑草をぬきとり其を肥料として、人間性の方向に魂の根を強く下せよと教へしは、是あるが故なり。されば修養修行と云ふ耕作の方法を研究せずば、生涯を動物性にて終らしめ折角さずけられし人間性の根を下すに至らずして終らしむれば、天理に反する事は異論の余地なかるべし。米をつくるに藁をも作らず、雑草のみ繁らせて田畑のあれ行くままに放棄しをきては、一粒の米も口にすることあたはざらん。然とは考へざるや。
 神より授けられたる人間性の大切なるを知らずして、動物性の肉体にのみ囚はれ居りては折角人間に生れし甲斐なし。さればこそ人は自己の本分が何なるかをも知らずして、一生を過し居るにてはあらざるか。兎に角人間は先にも語りし如く、動物性人間性の二つの具備があるによって、彼是迷ひを深くなし居るなり。さればこれを明らむる方法を講ぜざるべからず。兎角人は実間に重きををき、空間を軽んずるが故に迷ふなり。空間に重点ををきて実間に囚はれずば、従って人間性が発育することは当然にして、明らむる方法とは空間にのび行く力を養ふにあるなり。空間にのばすとは即ち智慧の増大を計る方法を云ふなり。動物性を度脱せよと云ふも肉体をすてよと云ふにあらず。肉体の具備ある間に智慧の根を強くせしめて其を育て行かば、動物性本能より度脱して人間性に化せらるるは、是即ち自然の法則にして他の道はあらざるなり。かくして空間にはてしなき智慧をのばす事によって天界は明らかに観望するこも得られ、やがて肉体滅すとも智慧の根は、広がり行きて枯死することなく天界へ天界へと上昇し、やがては天界に移植せられて益々繁茂の度を強くするなり。かかる事を衆人に語るとも現在の衆人の智慧にては、如何なる事の意味かすら解し難からん。
 円海泰岳ミキョウ、セイキョウ共にもとは動物性なりしも今は移植されて天界に、自由の枝葉をのばしつつ栄え居る事より、汝等衆人も是等によって学しなば、やがては引き上げられて彼等と同様の姿となることは火をみるよりも明らかにして、決して嘘偽はりにはあらざるなり。信ずるものは信ずべし。信ぜざるものは智能あさき故なり。徒らに疑ひて冥道に迷はんより、信じて光明の世界に来たれと促すものなり。釈迦は死して仏を残し、イエスは死してキリストを残す。衆人は死して鬼とならんよりは、寧ろ釈迦イエスとなりては如何 !
いささか宗教めきたることを語りて申訳なし。兎に角すべては衆人の心任せにせよ。

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