覚者慈音46 未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱  肉体を有する間に天界を観望せよ  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱                                 NO6                                                     教主寛大 講述



汝等衆人は死して地球を離れなば如何なる所に行くかと云ふ思ひに対して、今尚彼是論議をなしつつ、或ひは死すれば其にて終りなりと云ふもあり。或は魂は残りて月の世界か星の世界か知らねど、兎に角何れかへ上昇し行くならんと考ふる人もあり。宗教信者の中にはその宗教より教へられたる場所に行くものと思ひ居るものもあり、わけて仏教信者の如きは種々様々の教へ多きが故に、地獄極楽の中にも亦相違ある如く思ひ居るものもあり千差万別にして、一言詞することは難けれど兎に角死すれば、其にて終りなりとかたく信じ居る人は少なし。かく考ふれば矢張り死後は何ものかが存在なし居るならんかと、想像力をのばし居る人の方が、多しと見て差支へなからん。其は死してののちの研究は、学理によって証明することの難きが故なるべし。我等の云はんとするところの真理は此処にあるなり。他の動物はかかる事に考慮を払ひ居るものあらざるに引きかへ、何ものかを探ね求めとする智能の具はりある事に留意せざるべからず。是即ち他の動物と人間との相違は是等に徴しても見らるる如く、ここに大なるへだたりを有す。動物性を度脱して人間性に化せられて、はじめて未来を考ふるに至ることは、既に魂の有無に関して研究の資料を与へられ居るにてはあらざるかと云ふ点に着目せば、自づと来世に関して考慮をめぐらすの必要は感ぜざるや。肉体を有する間に天界を観望せよと云ふ言葉の意味はここに存す。汝等衆人、若き頃かかる考へを持ちしことありや。ひるがえって過去を反省し見よ。いささかもかかる事に思ひを致せしことのあらざるにひきかへ、年長くるに従ひて推理力は増大し行きて、魂を考ふるに至りたる順序より思惟せば、明らかに天界の有無はべつとして、何ものか我が心の中に目に見えざる一種のわり切れざるものが、頭をもたげ居ることに心づくならん。其をすら衆人は活力素の変化によると見るや。果して其が活力素の変化によると見なすならば、活力素は実在のみにあらずして、空間のすべてに働きをなすと見なさざるべからず。斯く考ふれば衆人の思ふ活力素は如何に変化なすとも、死滅せざる結果となるにてはあらざるか。死滅せずば永久はてしなく限度なくのび行く力を有するものは、活力素なりとの論説が証明せらるるにてはあらざるか。されど事実は然らざるべし。其を思ひ是を考ふる時何かそこに、一種の思慮分別にあたはざるものの存在しある事に気づくならん。衆人の研究なしたる活力素なるものの範囲を、我等に云はしむるならば、至って限度のせまきものにて、是等は唯実在に帰せしめて空の方向には研究の道未だ全からずと云ふの他なかるべし。其等の論旨は先づ是迄として、恰も一本の樹木の如し。唯時期至らば枯るる迄なり。枯るれば活力素の要なし。人生肉体一代は活力素によって生存すれど、枯るれば一片の煙となるにすぎざるべし。我等が先にも述べし如く心は肉体と共に枯るれど、魂は永久不滅なりと説きしは此理に基づく。

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