覚者慈音45  未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱   天界に一歩を印したる時第一の門を選魂所と云ふ。  教主寛大講義



未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱                                 NO5                                                     教主寛大 講述


 白血球の中に保持せらるるプラスマのはたらきが、活力素を作る源なりとか、種々様々の論説がとなえへられ居れど、其とても仔細に検討すれば取るに足らぬ愚説となり居るなり。兎に角生命保ち居る間は、活力素のはたらきに相違なけれど、活力素の具備あるによって生命は長く保持せるると思ふは、誤解なることに心づかざるや。汝等衆人ながく生きんとならば活力素の研究をなして、其によって永久に生存すると考ふるならば、先づその方向に研究を進め見よ。然して千年万年の命数が果して活力素によって持続することを得るや、否やをたしかむれば自づと解決は得らるべし。例へば人は老衰して倒れ行くは、活力素の欠乏なりと云ふならば、その活力素を作りて与ふれば老衰することも無かるべし。此事柄より考察すれば生存しあるが故に、活力素は具はりあれど、活力素のために生存なし得るにあらざる事は推して知らるるならん。是等に対してくはしく説明なし居らばはてしなし。兎に角肉体を有する間は、半ば動物性、半ば人間性にて一生を過ごす人は多し。故にとやかくと迷ひを深くするなり。何となれば時には動物性となり、時には人間性となるによって、相対となりて迷ふは無理ならぬことなり。兎に角半動物半人間にて終はる人は未だしも、人間性を忘れて動物性にて終はる人は多し。動物性にて終はる人は畜生道に転落して再び浮かび上がることあたはざる者さへあるを見ては、実に不憫なることよと思ふなり。されば半動物生半人間性の間に置かれある間に早くめざめて、動物性を度脱して人間性に進まざるべからず。大凡汝等衆人は最高動物として置かれあるも、人間性を有すが故なり。然るに其を覚らずして、唯上位にをかれある動物とのみ考へ居るが故に、進歩は捗らざるなり。所謂自慢は智慧の行き止まりとか云ふ言葉の如く、行為の上に於てもすべてかくの如き空しき方向に向かひ居るが故に、人間性を忘れて否人間性を知らずして、生涯を過ごしなば、忘れられたる人間性は何処に行くべきかを先づ考慮し見よ。


 総じて人間は若き頃心づかざりし事も年老ゆるに従ひ、次第次第に推理力が増大なしつつあることは、体験上衆人もよく知るところならん。その推理力の延び行く方向はすべて空間なるべし。予言者は未だ来らざることを予言してをきて、其が事実に現はるれば適中したりとて、はじめて真実として取り扱はるるに至る。若し其が適中せざる時は世間のもの嗤ひにて終はるは、一般のならはしなるべし。其と同様にて我等の語るすべての事柄は空なるが故に、汝等諸子は予言者の言葉と同様に聞きのがし居るならん。旅より帰りたる人の話を聞きてすら、尚も信ずることあたはざるは衆人の心なり。まして天界の事など語るとも信ずるあたはざるは当然なり。汝等衆人のうち幾人かにても信ずるものあらば信じよ。疑ふもの多きは当然にして我等は決して無理とは思はざるなり。其は汝等衆人の心を知るによって、かくは語れど事実に事実を重ねて、研究し見聞し尽して尚その居にありて、衆人を導かんとする我等は、実より実を重ねたる結果を報道しをきて、汝等衆人を迷はしめずばそれにて事足る。汝等衆人やがては我等が歩みし足跡をふみて歩む日も近からん。天界は遠し思へば遠く、近しと思へば近し。全宇宙は距離を有せざるが故なり。
 其は別として天界に一歩を印したる時第一の門を選魂所と云ふ。選魂即ち魂を択ぶ所と云ふ意味なり。然して第二も亦洗魂所と云ふなり。第二の洗魂は択ばれたる魂を洗ひ清よむる所にして、是は天界に入る順序として第一題二の区別を仮に命名なしをくにすぎず。この選魂所については前にもくはしく語りをきたれば、ここには省略すれど、その概略を知りをかずば順序は明らかならざるべし。よって今少し語りをく事にせん。

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