覚者慈音44  未知日記講義第一二巻  大霊界 汝は生き居るにあらずして、生かされ居るとのみ、我のまなこに映る 巻の壱  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱                                 NO4                                                                                                                                                             教主寛大 講述


 汝等衆人の如く肉体の中に心をいれて、その心によって肉体すべてを支配なし居る故に、肉体にのみ囚はるるは是等も自然の現はれにて是非もなき事なり。手を動かさんとせば手に、足を動かさんとせば足にと云ふが如く、一々に於て定まりたる法則あれど、肉体を離るればかかる必要はあらざるため、其だけ責任は軽くなりたる如く感じらるれど事実は然らず。従来の如く肉体の任務を魂が己一手に引き受けてなさざれば用を便ずること難し。故に魂は肉体の分をかねて二重三重の任務をなさざるべからず。兎に角其だけにてもはたらきの度が加はると云ふ結果ともなる。是等の事柄より慈音の立場を考へ見よ。現在の慈音は肉体の機能のはたらきはすべて他人の力をからざれば用を便ずるあたはず。然るに彼は世を救はんとして心に魂に分秒の休止をも与へずはたらかせ居るなり。若し彼にして修養修行の力なかりせば今日は一片の灰と化し居るならん。彼は下界に肉体と云ふ居を構へ居れど、軒は傾き柱は曲り雨露をしのぐにすら困難なるところにて、魂と心は自由の運びをなし居れり。この姿を見たる慈声は曰く「汝は生き居るにあらずして、生かされ居るとのみ、我のまなこに映る」と慈音に語りたり。此言葉によっても衆人はほぼ察せらるるならん。斯くなりても尚も衆人のために尽くたしとの彼が意中を、汝等衆人嘉するところあらざるか。
汝等衆人の世界は、人間性より遠ざかり益々動物化なし居ることを、慈音は悲しみて如何にかして、人間性に立ち返らしめんと計り居るなり。今や衆人の世界は混乱に混乱を重ね、名伏すべからざる悲惨事を惹き起こしつっあるに不拘、誰一人として今にめざむるもの無きは何と云ふ嘆かはしき事ぞ。真の人間ならば嘆かずには居られぬ筈なるに、道行く人を見れば頭髪飾りを整へて、遊び場所をたづね求めて、其が文化のあらはれなりとか、上は大臣に至る迄芸術家に賞を贈りて、享楽を鼓吹するが如き有様にて、其がはたして人間の任務なりと考へ居る政治家の存在する限り、真の人間は現れ難しと慈音すら嘆き居れり。
 今慈声が慈音に向ひて「人間の生存は活力素によって活かされ居ると学者は語り、その活力素を造り出せしは誰かとの質問に対して学者の答へは、かかる愚論を発するは狂人の沙汰とてとりあはざりし」と云ふ話を慈音に語りたり。現在の科学の程度はかくの如き幼稚なるものにて、其以上の研究は狂人の考へなりとて取り合はぬ如きは、実に愚なることなり。かかる有様にては霊の研究などとは思ひもよらざるべし。是等の学者に対して、霊魂不滅を語るとも耳を籍さざるは当然なり。人間はかかる単純なるものならば、別段苦労していろいろの事柄を研究するの必要もなからん。唯訳もなく生き思ふがままの行動をなして、死すれば其にて終はりとなるとの結論となるにてはあらざるか。

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