覚者慈音570

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第四の巻
           来世の巻                                   其の121
    六       魂魄一体の稔り                                
             リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 此処に注意を要する事は天界にのみ執着して得たる稔りの結果は即ち前にも述べたる如く蜃気楼を作りて此処に住する結果となり、又浮世に執着して得たる稔りの結果は浮世に残存して下界に迷いて苦しむ結果となるなり。此理に依って汝等が世界に右往左往する魂(たましい)のある事も察せらるるならん。己死しても死したるさへ知らず迷うと云うも光源力の稔りなりと察するを得ん。学者は是等に対して肉眼に見えざる故に迷信として顧ず。もし是を見るものあらば其は錯覚なりと一笑に附する人は多し。もとより幽霊などあるべき道理なしと思うもそはあやまりにあらず。例へば己の知己ならでは幽霊を見ざるが故に錯覚と思うも無理ならぬことなれど、幽霊は一つの念にして形あるものにあらず。汝等が肉体に幽霊のかげが光源力によって現はす力あるにょつて錯覚となりて認知することを得るなり。
 例へば夢枕に汝等が知己の幽霊が現われたりとせんか、その幽霊の持てる光源力のはたらきが汝等が脳裏にとけこみて脳をはたらかす結果錯覚となりて現はるる現象と知らば可なり。即ち霊あるが故に汝等に与える錯覚の現われなりと考うれば無意味に迷信として放棄するは余りに智慧なしと思うなり。今是を仔細に検討して推知する必要はあらざるかと思うなり。現在科学の進むに従いてかかる論説は無意味の如く放棄せらるるは遺憾なり。人智進みて今後益々科学の力発達するならば、来世論は決して無意味のものならざる事は後世に至って明らかとならん。されど現在にては到底認識することは難かるべし。依って我等は多くを語らねど唯霊ある事の事実なる事のみはここに確信して憚らざる処なり。余事は別としてさて本旨にかへるべし。兎に角一方的の魂或は魄と区分して残さばかかる弊害を生ず。故に迷はざる道を得んとならばここに魂魄一体の念を念として残さずば神の家に帰る事は難し。然らば魂魄一体の結実とは何か。

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