覚者慈音571

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第四の巻
           来世の巻                                    其の122
    七      稔りし魂魄と稔らざる魂魄との区別                                 
             リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 肉体滅後に於て稔りし魂魄ならば迷わずして到るべき処に到達するを得れども、稔らざる魂魄は唯霊の力にて或一定の所にて再びさばかれて又も下界におかるる結果となるなり。故に稔らざる魂魄は再び下界に下さるるとも前世の如何なりしかを知る事は難く又肉体滅後に及びて稔らざる稔らざる魂魄は下界の様をも知ることを得ざるによって是は一代にて亡ぶ事となる。
 例へば一本の線香が燃えきりて唯灰のみを残したると同様と思はば可なり。今少しく詳はしく語らば娑婆に現在する間は唯肉体にのみ囚はれ居て魂魄に何等の養分を与へざるが故に、心意のみのはたらき強くして魂魄の稔りを得ざるが故に肉体亡ぶれば心意も共に消滅し、魂魄は稔らずして上昇するが故に天界をも知らず、又下界をも知らず、霊のはたらきにて空虚なるまま到るべき所に到りて再び新しき下界に下されて又も娑婆の苦患をなむるに到ると思はば可なり。五〇年にて死したる人は五〇年を無意味の生活にて唯野育ちにて終りたれば天の使命を果さずして終り、更に再び三度かかる事を重ぬるならば永久下界の苦をなめて天界の安らかなる処には永住することを得ざるは道理なりと考うれば可なり。
 さて稔りたる魂魄に在りては然らず。例へば肉体を下界にすてて天界の定められたる所に到達する時は下界の様はもとより天界の姿をも知るによってすべては明らかに推知する事を得る力を有す。例へば下界より天界に昇り従来行い来りし世界を天界より見守りて後より来るもののために救いの手を差しのぶる事すら至難にはあらず。故に真の自由を許されたる位置に置れて下界に来らんとせば下界に、或は天界に進まんとせば天界にと己が欲するがままの行動をなす事を得るなり。是即ち稔りたる魂魄と稔らざる魂魄の相違は大差ある事を考へて肉体を有する間に早く稔らする修養をなさざるべからず。 
 

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