覚者慈音 3    慈音とこだま会の発足   衛藤慈声

           覚者慈音3




昭和四十六年三月
      衛籐慈声
    慈音とこだま会の発足



「貴尊方の教えは智識具備して実に尤もと感ずる人に於いて行う法なれども,現在の如く混濁したる日本人を育成指導なさんと計らば,到底消極的方法に頼みおりては人心を柔らげるに時間を要すべし。故に我は憂慮のあまり教主に斯くと告げて許可を受け,一方慈音を促して未信仰者を集め,我は講演して初心者の為に計らんことを誓いたり。」との御慈悲によって成立されたのであります。


上記の一節は敗戦後の日本人を案じ給うたミキョウ貴尊(円海大師)のお言葉である。
慈音は貴尊の此の愛情から出た人集めについては詳細なことは何も語られず,唯,私(慈声)との日常の何かの話の序でに,世に容れられない人々,指弾されて困って居る人々を一人でも集めて相談に乗ってやりたい旨を洩らされたのでした。然し,其れは私共のおかれた環境から見て直ぐと云う訳にはいきそうもない。第一そんな人は周囲にいないと云ってよいのでした。まして易占いは売卜と同視されて私とししては到底同意しかねたのでした。それ程老師は健康に見えなかったのです。
敗戦の結果,外国軍の占領下にあって明日の米麦に事かく昭和二十一年の秋でした。日本人の受けた心の痛手はまだ血をふいていて,将来への見通しなど一般凡人には見当もつかない時期でありました。
「ね,先生,そんな難しい事は仰らず私共の周囲から来て呉れる人だけを集めてはいけませんか。心の拠り所をもたず迷っている人は沢山いますもの。」
慈音は少時考えていたが,「そうだな,其れも一法だな。では,そうするか
そうして,貰いましょう。」と私の進言に同意されたのであります。勿論,貴尊に許可を求められたのであるが,その時私は何も気づいていなかった。
第一,老師はその発起人が円海大師である事を私には語られていなかったのです。未知日記の教えの全貌がまだ充分把握出来ないで居るだけに,私は如何に誘いの言葉を発すべきかについてとやかく思い悩んだものでした。昭和二十五年二月四日,兎に角こだま会は発足した。集まるもの僅かに4人,慈音を含めて5人。此の日,私は物忘れして他に約束をしたため不参したのであった。
その位に私自身も未だ此の集会にかけられた真意は掴めないでおりました。
会名のこだまは自問自答により命名され,名付け親は松尾東平であると老師から報告を受けた。然しこの「こだま」は単なる反響の意味ではない。
人は生まれながらにして自問自答の法は身につけておるものであるが,正しい用法は精神科学未熟の為に未だ大衆に理解されていないと思うので,未知日記の講義の一節を引用して読者にわかつていただきたいと思います。
「自問自答の自問は心より意,意より魂に伝わり,魂より魄に伝わり,魄より霊に伝わり,其の自答は逆に霊より魄,に伝わり,魄より魂に伝わり,更に魂より意,意より心に返ると同様にて,魄に有する第4の鏡(はたらき)は魂より写ると,霊より来るとの両道が現れて,正しい結果の報知(明示)見らるると承知せよ。是,自問自答の正しき原理なるに依り,此の法を完全に行い得るにいたらば霊妙不可思議の徳は現れて,決して毫も過誤を教ゆるものにあらざることを知らるるに至らん。」と



即ち,人の精神構造は上記の如く立体的には心,魂,霊の三層である。然して「こころ」は心と意,「たましい」は魂と魄の陰陽の関係があって,この五の要素から構成され,それぞれ一つ一つに機能特質があるから,その使用法を明白に認識する必要があるのである。自問自答もその使用法の一つである。思考することは自問自答の法を行うことである。俗にいい智慧がでないとか,考えが浮かばないと云うのは,その自問が底辺の魄および霊にまで通じないで途中で引き返すからである。大発明,大発見はその自問自答の達人の成果である。
故にその五つの要素を打つて一丸となし,完全に働かせる練習が人として最大の要務となるのであるが,精神科学の未発達から今日までまだ大衆には認識されて居らず,人の能力は野生のまま放任されて,各自の天分資質は眠ったままであると云っても過言ではない。まことに惜しむべき事である。
それから精神構成の底辺をなす霊について未知日記には



「幽霊の如きものを想像するは霊にあらず,又宗教家が語る霊,或いは近代心霊学などと称して研究なしおる霊の如きを想像せば其は大なる誤解なり。我に有する守護霊は何々とか云える如きは愚なる考えにて,霊の研究をなさん等とは実に愚も甚だし。
霊とは人にのみ有するものにあらず。全宇宙に通じて働きをなし居るが故に,一切悉く全宇宙に存在するものに通じて働きをなし居るものを霊と云ふなり。是を縮小して汝等が世界においてみる時,山川草されど世人は霊の何なるかを正しく認識なし居らざるが故に,霊を過小に考えて是を別個の方面より研究せんと計るは実に笑止の至りなり。もし宇宙に霊なくんば,今日の科学は成立せざるべし。」と解説されております。



然し,これだけでは合点,納得の行かない人ばかりでしょう。霊の偉大さが理解できなくては,人の尊さは自覚出来ないし,霊がわからなくては慈音の達成した実力の如何なるかも理解困難でありましょう。詳細は未知日記について研究して頂きたいものです。
こだま会は一週に一度集会をもちました。来る者は拒まず,去る者は追わず。是が会のモットーであったが,その意味もまた通俗的に解釈すると間違いますがここでは割愛させて頂きます。故に自然に伝え聞くにまかせて人々を誘う事はしなかったし,又いかなる団体組織も作りませんでした。
講師は勿論,ミキョウ貴尊が昔の円海となって臨まれましたが,もとより姿形をあらわされたのではありません。そうかといって慈音は今日の心霊学者の云う霊媒でも,神憑りでもなかったのですが,これについては未知日記の説明を求めたいと思います。





「行ずれば我等の如く自由の行動をなすのみならず,分身して種々様々な任務をなすことさえなすを得るなり。現にミキョウはミキョウとしての働きをなしおる傍ら,昔の円海となりてこだま会に臨みて訓話さえなし居るにてはあらざるか。」
 又
「斯る事を諸子の判断にては唯,慈音が錯覚を起こして恰も神憑りとか,巫子の如くなり居ると想像するならん。是等を学理によって考えみよ。即ち円海放送局より発する電波が何々サイクルの働きをなして,其れが慈音の有するセットに通じて放送され居ると同様の関係となり居るにて,決して神憑り,巫子などの類にあらず。然からば他の者に対して何故感ぜざるやと云うに,こだま会に集まり居る人達は未だ肉体にのみ囚われ居るが故に魂の受信機が完全に組織せられおらざるが故なり。こだま会の人達がやがて完全なる受信機に組織さるれば一様に受信することを得るは云うまでもなし。
慈音は永らくの間,棄屍の法に苦しみて漸く,魂の受信機を完成なしたるが故に円海放送局,或いはミキョウ,セイキョウ,テッシン,教主等々の放送局から発する電波を受け入るるに至り居る迄なり。近代の如き,欺瞞者の世を欺く神憑りとか云える如き偽りの行者にはあらざるなり。
分身法とは所謂一つの放送局より発電する電波の波長が様々に変化しあると同様の関係と知らばうなづかるるならん。又,姿に依りて現さんとせば,是又電波によってテレビジョンともなりて現ることも敢えて至難にはあらざるな木はもとより動生物に至るまで皆悉く霊の力の有せざるもの一つとしてあらざるなり。」



又,別の言葉で説明するなら大師が慈音の肉体機関を操作されたのでした。
即ち,慈音は貴尊方の指導に依りてよく行じ受信機を完成したが故と云う事に帰着するのである。
講話中の慈音の態度は平常の様子といささかの相違も見せませんでした。唯,自然の声音の調子抑揚に顔や身体つきに何処となく本来の慈音其の人でない,円海大師の幻影を髣髴と看取させるものがありましたが,私のように平常慈音に接して居る者にしてはじめて看取出来ることで,人々には気づかれなかったようです。みな慈音がお話していると思って居りました。然し,慈音の身辺にいた私には講話中の慈音の脈拍の鼓動の激しさが看取され血管が盛り上がり,後の疲労もひどかった事は事実であります。それは10流界に生存する慈音の肉体組織が原因で,もし円海大師がミキョウの資格で臨まれたとしたら慈音の負担は大変なものであったろうと思います。が円海大師は武家の出身で幼児より武道で鍛えられた方である。慈音また一日端然と正座して礼儀を乱すことの無い人であつた。何も知らない会員達は長い期間に亘って慈音自身が講話しているものと考えていた。又,殆どの会員は欧米流の心理学や霊媒などには無縁の人々であった。又,詳しいことは私も話すことを避けておりました。初心の方には理解が難しいと思つていたからです。





貴尊方はよく屡々
「我等は宗教者にあらねば善事を行い悪事を捨て世を害する事無く一生を全うせよと云う如き教えはなさざるなり。」



「唯,神を信じるとか仏を信ずるとかのみにては,其はさとりにあらず。知るにすぎざるなり。知りたりとて悟らずば何の価値もなからん。知りて悟る底の信仰者にあらざれば何の甲斐もなし。」
 又
「我等は汝等衆人に対して唯,推理力より教えをなすにあらず。其の真相を語りて教えおることに気ずくならん。宗教者の教示は方便なるが故に,種々様々の方面より悪事を犯さざるよう導きをなすにすぎず。されど我等は宗教者にあらざれば善悪の区別は兎に角真実を語りて汝等衆人の手引きとなさんがために参考として語り居る迄なり。」と



いつの日か秋風が吹き,こだま会に集まってくる人々も自然増加によって発足当時の何倍かにふくれあがっていた。中には会費を集めて,何らかの団結を計ってはと助言して呉れる人も居た。然し,慈音は聞き流した。私にしても金銭には色々な情実が絡まるので賛成はしかねた。
「是だけのお話をこの位の人数で聞くのはもったいないぢゃありませんか。宣伝と云っては何だけど少し人集めの法をお考えなさっては如何でしょう。」と進言して呉れる人々も現れました。
「でもねえ,先生,今来ていらっしやる人達のうち最後まで残るのは何人位でせぅか」
私には今生の利を説かず,後生の利も説かず,魂の浄化のみを説くこの会の真意を人々の心に訴える力はどんなものか疑問に思えたのでした。
「さあなあ,何人がつづくかな,皆来なくなるかも知れない」と慈音はにこにこして答えた。
「では今のままでいいでしょうか。」「いいも悪いもない。」
「では無理に人を集めることもないでしょう。」
二人のあいだではその問題も斯うして打ち切られたのでした。そうこうしているうちに月日は過ぎて其れは初冬の一日,こだま会の散会後,同じ方角に帰る者のみつれだって戦火に焼かれた屋敷跡のとりかたづけもまだそのままのお屋敷街を歩いておりました。途中乗り換えて電車で帰るよりも三角の一辺を歩いて帰る方が時間をとらないのでした。その時A婦人が思いあまった風で云いだしました。
「何「貴女が ?  ご冗談でしょう。其れは私のことですわ。お恥ずか
しくっていままで口にだせなかったのですけど」
とB婦人が応じました。すると他の二人の婦人達も同じことを告白して他の同情を求めました。
私は深い興味をもって是等婦人達の言葉を黙々と聞いて居りました。
貴尊は人をせめ,非難する如き言辞は一度も口に上せられなかったし,又,宗教家の如き言葉遣いは決してなさらなかったのである。
其れにも拘わらず,男子のなかにも婦人達と同じ意味の言葉を口にして苦笑を洩らす者も居たのである。斯うした人心の動揺は集会を重ね,日を経つにつれて益々はげしく著しくなった。かくのごとき心理的反応を惹き起こしたことについて,私は唯,言い様のないもの,深い感じを受けておりました。
すると,「ひどいわ」とか「いやだわ」とか云って激しい反発をみせて姿を消した婦人達はひどくなにかこころを傷つけられたように見えた。男子の中にも何時となく会から遠のいた人も居りました。
「先生,是は一体どうしたわけですか」と私は訊かずに居られませんでした。「うむうむ」と慈音は口ごもるだけで何も説明してくれませんでした。
私は追求を止めました。いづれ解らせていただく日は来るであろうと。
そしてその日は思ったよりも速く来たのでした。だか,伊東先生は私にあてつけていらっしやるようで辛いことばかりですわ」
貴尊は人々の心に語り聴かす事をせず,魂に語り聴かせておられたのでした。





「円海が常にこだま会に於いて語り居る講義においてすら,皆各自聴衆者に異なりたる感銘を与え居るについて,語る言葉は一なれど感ぜしむる相違は聴く者をして一種の感じを与え居ることは,是即ち法力を用い居るに依ってなり。」「積極的方法は従来の方法とは異なり,いささか苦痛を伴ううべけれど,屈せず撓まず修行せば必ず成就疑いなきことを保証すべし。
常識に富みたる人ならば消極的修養によつて安全に苦しまずして大悟徹底するを得れど,現今の日本人の如く糸の切れたる凧の如き姿なる人間にありては積極的方法に依って此の糸を結び止めて飛散せしめざるよう喰い止めずば再起再建すめること難かるべし。」と未知日記に記録せしめられたのであった。





良師の良薬なるにより利き過ぎて,腹痛や下痢を起こす憂いはない筈であったが,矢張り強すぎたのであろうか。然し,これはこだま会の会員のみを指すのではないのである。
又,教主は





「こだま会の会員こそしあわせものなり。円海は言葉(心魂和合法)をもって導き,泰岳は無言詞(誘魂法)にて導く。世の中に種々様々の宗教あれどこだま会程大なる力もて育てられおる会は類稀なるべし。其は余りに他の宗教とかけ離れたる組織なるが故に,会員はこれ後相当の日数が経ってからでありました。それまでに会員は円海大師を通じて何とはなしに親愛の情を抱くように導かれておりました。
「泰岳さんはお香がお好きぢやそうな。今頃手に入りましょうかねえ,如何ぢやろうか。」と慈音は云われました。いよいよ泰岳大師が臨席されると決まってからでした。
「さあ,如何でしょうか」
私も半信半疑でした。敗戦の結果,世をあげてまだ日本は混乱の最中にありました。財閥は解体され,秀才は職に迷い,地主は土地を失い,衣食をもとめて人々は右往左往する時代でありました。私は考えました。「焼かれなかったお家には以前の貯えが少しくらい残っているかも知れませんねえ」
「そこはあなたのいい様にまかせますよ」と慈音は云われました。
私は見当をつけてお願いしてみました。一軒あたりの貯えは僅少でも貰い集めてみると或期間は充分に間に合う量がありました。
泰岳大師は幼い頃から親兄弟をはじめ周囲の人々から愚者扱いを受けた聖者である。そのお方がお香を焚いていて娯しまれたとはちょつと考えれなかったが,私は慈音の指示に素直に従った。
然し,間もなく真相は私にもわかりました。お香を焚くことによって,会員の心気を沈め,気を整える方便の薫香でありました。日本,中国で焚香の習慣が出来たのはその発する源は重大意義を含んでいたのでありましょう。其れが日本で死者に供えて香を焚くようになったのは,死別によって気の転倒して居る肉親者達の心を沈め,且つ空気消毒を兼ねたものであることをある日,私は慈音から説明を受けました。
世が移るにつれ最初の真意が見失われて,果ては廃れ行くものは多いと思います。「泰岳さんは今日からお見えになる。」と聞かされた時,一座の上には何となくかすかなどよめきが感じられました。大痴の大師が聖者となられたと聞いては格別の感じをもつのが常人でありましょう。





「わしは子供の時からよくまんまんさんを拝んたぞな。皆さんもまんまんさまを拝みなされや。まんまんさまを粗末にしてはいけませんぞな。」と幼児の如き声音で幼児言葉が発せられた時,会員一同の面上には微笑の影が拡がっておりました。然るに,慈音の何となく変貌した姿も会員達は見逃してはいなかったのです。円熟した老媼の如き柔和さに,思わずその膝に寄り添いたいような衝動を受けた人々は一瞬にしてとまどいを感じて居づまいを正したのでした。一座はシーンとしたのでした。




「彼は慈音を愛し,こだま会には欠かさず慈音に至りて無言詞を送りて指導を軽く見る傾向あるは実にあさはかなる者共なりと云う他なからん。慈音にして一般宗教者の如き振る舞いをなすならば,泰岳も円海も席を蹴って立ち帰るならん。泰岳,円海は百万の集会者よりも正こだま会成立後相当の日数が経ってからでありました。それまでに会員は円海大師を通じて何とはなしに親愛の情を抱くように導かれておりました。
「泰岳さんはお香がお好きぢやそうな。今頃手に入りましょうかねえ,如何ぢやろうか。」と慈音は云われました。いよいよ泰岳大師が臨席されると決まってからでした。
「さあ,如何でしょうか」
私も半信半疑でした。敗戦の結果,世をあげてまだ日本は混乱の最中にありました。財閥は解体され,秀才は職に迷い,地主は土地を失い,衣食をもとめて人々は右往左往する時代でありました。私は考えました。「焼かれなかったお家には以前の貯えが少しくらい残っているかも知れませんねえ」
「そこはあなたのいい様にまかせますよ」と慈音は云われました。
私は見当をつけてお願いしてみました。一軒あたりの貯えは僅少でも貰い集めてみると或期間は充分に間に合う量がありました。
泰岳大師は幼い頃から親兄弟をはじめ周囲の人々から愚者扱いを受けた聖者である。そのお方がお香を焚いていて娯しまれたとはちょつと考えれなかったが,私は慈音の指示に素直に従った。
然し,間もなく真相は私にもわかりました。お香を焚くことによって,会員の心気を沈め,気を整える方便の薫香でありました。日本,中国で焚香の習慣が出来たのはその発する源は重大意義を含んでいたのでありましょう。其れが日本で死者に供えて香を焚くようになったのは,死別によって気の転倒して居る肉親者達の心を沈め,且つ空気消毒を兼ねたものであることをある日,私は慈音から説明を受けました。
世が移るにつれ最初の真意が見失われて,果ては廃れ行くものは多いと思います。「泰岳さんは今日からお見えになる。」と聞かされた時,一座の上には何となくかすかなどよめきが感じられました。大痴の大師が聖者となられたと聞いては格別の感じをもつのが常人でありましょう。





「わしは子供の時からよくまんまんさんを拝んたぞな。皆さんもまんまんさまを拝みなされや。まんまんさまを粗末にしてはいけませんぞな。」と幼児の如き声音で幼児言葉が発せられた時,会員一同の面上には微笑の影が拡がっておりました。然るに,慈音の何となく変貌した姿も会員達は見逃してはいなかったのです。円熟した老媼の如き柔和さに,思わずその膝に寄り添いたいような衝動を受けた人々は一瞬にしてとまどいを感じて居づまいを正したのでした。一座はシーンとしたのでした。
「彼は慈音を愛し,こだま会には欠かさず慈音に至りて無言詞を送りて指導をしき一人の信仰者にて可なりと思い居るが故に慈音を離れざるなり。」
と仰せられた。

此の真意を理解認識なし得る者は容易に育たなかったのでした。勿論,日本人は遠き先祖の時代から心魂霊の区別は教えられておりました。然し,正しい教えは育たず,年月を経るにつれて肉体本位の生活をするようになってしまい魂の事を忘れてしまいましたので,哀れと思し召してこその貴尊の苦言もこちらの受け取り方が悪くて耳に逆つたまででした。
然し,此の心の動揺にも拘わらず,残留した人々は一度はキリスト教や仏教の門をくぐった人々であったことも私には興味がありました。
コーセィ.ミキョウ貴尊が在世時の泰岳として会に臨まれたのは,こだま会成立後相当の日数が経ってからでありました。それまでに会員は円海大師を通じて何とはなしに親愛の情を抱くように導かれておりました。
「泰岳さんはお香がお好きぢやそうな。今頃手に入りましょうかねえ,如何ぢやろうか。」と慈音は云われました。いよいよ泰岳大師が臨席されると決まってからでした。
「さあ,如何でしょうか」
私も半信半疑でした。敗戦の結果,世をあげてまだ日本は混乱の最中にありました。財閥は解体され,秀才は職に迷い,地主は土地を失い,衣食をもとめて人々は右往左往する時代でありました。私は考えました。「焼かれなかったお家には以前の貯えが少しくらい残っているかも知れませんねえ」
「そこはあなたのいい様にまかせますよ」と慈音は云われました。
私は見当をつけてお願いしてみました。一軒あたりの貯えは僅少でも貰い集めてみると或期間は充分に間に合う量がありました。
泰岳大師は幼い頃から親兄弟をはじめ周囲の人々から愚者扱いを受けた聖者である。そのお方がお香を焚いていて娯しまれたとはちょつと考えれなかったが,私は慈音の指示に素直に従った。
然し,間もなく真相は私にもわかりました。お香を焚くことによって,会員の心気を沈め,気を整える方便の薫香でありました。日本,中国で焚香の習慣が出来たのはその発する源は重大意義を含んでいたのでありましょう。其れが日本で死者に供えて香を焚くようになったのは,死別によって気の転倒して居る肉親者達の心を沈め,且つ空気消毒を兼ねたものであることをある日,私は慈音から説明を受けました。
世が移るにつれ最初の真意が見失われて,果ては廃れ行くものは多いと思います。「泰岳さんは今日からお見えになる。」と聞かされた時,一座の上には何となくかすかなどよめきが感じられました。大痴の大師が聖者となられたと聞いては格別の感じをもつのが常人でありましょう。

×

非ログインユーザーとして返信する