覚者慈音546

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第三の巻
           未来の巻        其の98
  第九    心の信仰と魂の信仰について  其の2                         NO2                                           リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 宗教者が語る我名をよって神を求めよとか、或は十万億土たった一足とか語り居るも信仰はここに存するならん。天国極楽は遠からず。過去現在未来の三世をはなるれば即ち汝が住める位置その処にて天国極楽はありとの意味なるべし。遠きを求めて近きを知らず。近きに囚われて遠きを知らざる相対信仰なるが故に絶対の信仰は得られざるなりと考へて修養修業せば或は肉体信仰は絶対信仰の二つもすべて無に帰すべし。無に帰してはじめて絶々対の信仰に入ることを得、是即ち霊的信仰の極妙なりと考へて可なり。所謂すべてを放棄してすべてをわがものになすことを目的として修養せば可ならんか。故に我等は先に汝等が心に神を作りては如何と説きたるも大意はここに存す。迷いを伴わぬ信仰にあらざれば正しからず。例へば汝等一つの事柄を考究するに当って思慮分別に及ばざることあらばその時何をか他より求めんとの心を起すならん。そは何処より何によって求めんと計るにもあらず。唯何かは知らずわき出づる智慧のはたらきを願うならん。その願いは何処にありや。及ばざることをなし遂げんとして何ものかをたづね求めんとするは恰も盲者が道をさぐるに等しかるべし。彼と是とを対照して彼によって是を求めんとなさばそは相対なり。汝等の心はすべて相対的にはたらきて絶対ならざる処に心を止め、然してその彼我の区別を全くはなるることを得ばここにはじめて絶対の境涯に入ることを得。これ無の境涯と云うなり。この論旨をよくよく翫味せば自然に彼我一体の境地となることを得ん。無の境涯と思うことも亦相対なること多し。何とならばもし神と云うものを知らんとせば即ち神と我、我と神との対立して相対となる。故に神を我とし、我を神とせば神我一体となるは道理なるべし。されど是にても未だ絶対とは云い難し。何となれば神我即ち相対なり。神もなく我もなきところにはじめて絶対の境涯に入ることを得、これ即ち霊的の信仰なりと考へ修養せば可ならん。


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