覚者慈音527

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第三の巻
           未来の巻        其の80
  第三       知りてさとるか、覚りて知るか
                       NO1                          
             リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 大智を得せしめんとて我等は斯る題目を掲げたれば汝等は奇異の感を抱きたるならん。一般人の考へは知りて悟るは順序にして知らずしては悟る事は難しと思うならん。甚だしき至っては知りても尚悟る事を得ざる人も少なからざるべし。聞きて知り、知りて覚え、覚えて後はじめて悟るは順序なるに其さへ成しあたはざる人は多し。まして悟りて後知るなどとは夢にも考へざるならん。誰かの句に「今聞いて直ちに忘るる身なれども、南無阿弥陀仏のこる嬉しさ」と云うを聞きたり。汝等是を如何に思うや。唯一 野人の駄作として顧みざるか。然りとならばもし其が大徳聖者によって口ずさまれしと聞きたるならば、汝等は駄作名作の如何に不拘考慮を払うならんと我等は思うが如何に!
 総じて人は事の如何に不拘、先づ人の人格を先にたしかめて後ならでは判断せざるものなり。是は何故なるか、即ち智慧の至らざる結果なるべし。一野人と汝と共に旅するならば野人は汝の荷物を持ち呉るる事もあるべけれど、聖者とならば汝が却って荷物を持ちやるべき立場とならん。然りとせば野人は寧ろ汝の恩人にて、汝は聖者の恩人ならずや。然るに聖者を重視し、野人を軽視するは何故ぞ。即ち霊智の程度の相違によるならん。汝等の一般は唯聖者と聞かされて言葉の上の信より生ずる尊敬にすぎざるならん。是は後の話にゆずり、彼の短歌より先に解決をなさん。
 汝等の智慧は多くを学びて多くを知りたるを覚者と思うが故に雑草を繁らせて却って大切なる木を枯らすに等し。彼の短歌を詠みたる人こそ真の覚者なり。宗教者はその弥陀を衆生のものたらしめんとして、種々様々語り居るなればすべてを聞き流して忘るるも弥陀さへ残れば其にて相方の願望成就はなし遂げたるなり。即ち此野人の場合は聞き知りて悟りたるなり。故に彼は最早野人にあらず。大悟を得たる人となりたるなり。汝等の多くは聞きて知ることすら得ざる人は多かるべし。悟りの信仰とはかくも至難なり。或聖者は門人を戒めて曰く「汝等あるものを見て悟るは易し。なきものを悟るは難し。されど無きものを悟らずば真の悟りにあらず」と。真に然あるなり。もとよりありと思うもなし思うも迷いなれば悟らざるべからず。されど実在の悟りは易けれど空なるものを悟るは困難なり。されど大なる発見は空より生ずるなり。されば空ならざるべからず。

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