覚者慈音528 三世と四世論 未来の巻  知りて覚るか 悟りて知るか  セイキョウ貴尊講義   セイキョウ貴尊講述

              三世と四世論
           未知日記第八巻
           第三の巻
           未来の巻        其の81
  第三       知りてさとるか、覚りて知るか
                       NO2                         
             リョウジャ.セイキョウ貴尊講述


 もし汝等にして我、神の力に依って世を救はんと思うなれば其は既に空にてはあらざるなり。何となれば我と云うものの存在なし居りては空ならざるなり。されば悟りて知るにあらざれば真ならず。悟りて知ることは果してなし得らるるかは疑問なるべし。汝等はよく天佑と云う言葉を口にし居れり。その天佑なるものこそ悟りより知ると云うなり。きはむれど求むれど得るあたはず。万策つきて既に放棄せんとしたる時思いもよらぬところより道は開らけて成功したる例はすくなからずあらん。是等も無より生れし有にして悟りより知るに至りたる結果なるべし。天佑は果して神を知るものにのみ来り、然らざるものに来らざるか。又天佑は事実あるものかについて汝等は考へしことありや。現代日本人は天佑と云う言葉を口にせざれど戦争酣(たけなわ)となりし頃は盛んに天佑とか神風とかを振りまきて国民を煽動し、何れの神社も繁盛して喜びしものは禰宜(ねぎ)神主のみなりしなり。その神風が吹かざりしため現在の神は宗教用具と早がわりして伊勢の昔は影をかくしたり。人間の説く処程頼み難きものはなしと寒心に堪えざるなり。
 余事は別として天佑なりとして取り扱はれあるは大抵は霊佑にして天佑にあらざるなり。今一例をあげて語らんに或る人鉱山を採掘し居たりしが如何にしても目的を達するあたはず万策つきて既に死を覚悟したる時、或雨の夜枕辺に神の姿現はれて「明日は鉱脈を得せしむべし。死する勿れ」と。然して夕暮れより降り居たりし雨は暴風雨となり山はあれたりしが風雨止みて山に到り見れば大なる鉱脈が露出なし居たりしと云へる実話あり。かかる例話は限りなくあるならん。されどこの種に属するは天佑にあらず。霊佑と云はんか、寧ろ佑私と云うは適当なるべし。即ち人一度万策尽きて既に死を決する程度迄至らば摩擦根は最早行動なす術を知らずして沈黙す。此処に至って魄は霊の教へを受けて現はれて救いたるなり。汝等口にし居る守護霊とは是を指すと知らば可ならん。汝等口に守護霊を称うるのみにして守護霊は常に我を守り居て傷けざればそのままに放任なしおくも可なりと心得なば其は大なるあやまりなり。又或る人は云う、我は守護霊の命ずるままに行動なし居るによって神など信仰せずとも可なりとて、勝手気ままの行為をなし居る人すらあるを見る。かかる人は真に守護霊を知らずして摩擦根の命に従いて行動なし居る人に多し。されば此守護霊の佑けあることに遭遇する迄には死を決するに至る底の辛苦ありてはじめて守護霊に対面して其は神の助けなり、神の姿なりと誤解する程尊く感ずるは帰する所、我魂にてありしと知るに至らば実に我にも尊き神の血のつながりあるに今更の如く歓喜に胸の昂まるを覚ゆるならん。かかる体験を味はうことなくして守護霊にまかせをかば可なりなど称へ居るは片腹痛き笑止なり。人は此守護霊の恩恵に浴せんため難行苦行を重ねて尚対面するあたはずして悲しむ人はすくなからず。人は唯文献によって知りたりとて何の甲斐もなからん。いささか横道に入りたり。もとに復すべし。

×

非ログインユーザーとして返信する