覚者慈音42  未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱  我等に身も心も任せて歩み居らば、我等は疲れし頃を見計らひては休養せしめ・・・・・  教主寛大講義



未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱                                 NO2                     教主寛大 講述


 旅するものの最も楽しき春は目前にあり。やがては満山悉くが花又花と競ひ咲きて汝等衆人を招かん。かくなりてはにぶき足は尚もにぶりて、歩みは意の如くにはならざるべし。甚だしきに至っては花に招かれて横道に入り、旅を諦めて我家に引きかへすものもあらん。花はよび酒はよび男女はよび、その果ては争ひとなり、身心共に傷き倒るるもあらん。花散りて夏の日ざし強くならば、涼風に招かれ木陰に招かれ清水に招かれ、此処にも亦空費の時間は長し。夏すぎて秋風たたば月に招かれ、虫の音に誘はれ又もや道をふみ迷ひて、我等より遠ざかる人亦少なからず。冬は寒しとて旅するをいとひ部屋に閉ぢこもりて、空しき日を費やすもの是又少なからず。四季悉く言葉あり。言葉あるによって感じを深くせしむるなり。語らぬ言葉とは是等の部に属すと知るもよし。すべてに於て言葉なきもの一としてあらざるなり。幼き頃眺めたる花と、年長けてのち眺むる花とには、花と云ふに変りなけれど、衆人の心に相違あらん。是等もみな言葉に属す。旅を続くるものその言葉に惑はされて傍道に入るが故に、目的の地点に進むことも従ってにぶるなり。他のものに心を移さず、我等に身も心も任せて歩み居らば、我等は疲れし頃を見計らひては休養せしめ、恢復したる時期を計りて又進まするが故に、知らず知らずの裡に定められたる場所に到達する事を得るなり。旅するもの既に目的の地近くならば、足の疲労も肉体の疲れも何時しか失せて、足は空路を平然と歩み、肉体は楽音霊気に洗はれて心地よく、魂は今迄見ざりし霊光を拝するに至る。苦きと思ひしことは楽みに化せられ、悲みは喜びに変じて、今迄味はひし事のなき無声の声は明らかに聞え、何も知らざりし頃の昔の思ひは全く一変して新しき心に変化す。此境涯に至って始めて旅の一歩は安楽の地に印せられたるなり。古き昔の喜び悲みはものの数にあらざりし事も知ることを得るなり。有難し勿体なしの観念に於てすら、昔と今の相違は言葉にてはあらはし難し。即ち古今の姿が一変して恰も表裏の関係となりたるによってなり。聊か話を横道に入らしむるを以て、汝等衆人に対して申訳なけれど、今後我の言葉は長し。ために誤解を招くこと多きを知るによっていささか語りおくべし。
 我今語り居る言葉の意味に対して慈音の受けかたと慈声の受けかたに少しの食い違ひ生じ居る事を知るによってなり。是等は修養修行の程度に応じて、相違あることは云ふ迄もなし。されど同じ言葉が両者に於て同じからざればすべては空しと、汝等衆人は感ずるならん。慈声と慈音の受けかたに相違ある如く、初心者の衆人には千差万別の感想より聞き居ることも我よく知る。汝等衆人食を求むる時一人は塩からしと云ひ、一人は甘しと云ふ如く味と云ふに対しても隔あらん。此事よりすべてに引用して深く深く彼方此方へと感じを変へつつ、我の話を聞きてよくよく味はれんことを望む。
 汝等衆人の世界は余りに矛盾したる事多し。善人は塗炭の苦みに泣き、悪人は享楽に耽りて喜ぶ。此事柄より考ふるとき善行を営みて苦まんよりは、寧ろ悪人となりて世の中を思ふがままに渡るにしかずとさへ考ふる事もあるならん。畜生道の味ひを受けたるとき、慈音に於てすらこの言葉を口にして悲鳴をあげたり。「われ、慈音、未だ曾て天命にそむきし事あらざるに、何故此苦を与へ給ふや。世の中に神仏ありなどとは考へられじ。もし真の神仏ありたらんには、かかる苦しみは与へざるべし。此事より思ひを進むれば、神ありと思ふは迷ひにして、無しと思ふは正しからん」など口走りたるを見ても、如何に世の中の人は神仏の考へなどなし居る人は、稀なることに思ひ至らん。世の中の変化がかくも、神仏の道より遠ざかりあることは、さてさて哀れなることなり。人智進むに従ひて神智より遠ざかる。人智は肉体の動物性にひかるるによって、神智の如くならざるはすべて空は、実に化せられ行く逆自然の法則なるによってなり。

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