覚者慈音41  未知日記講義第一二巻  大霊界 教主出座 厳戒の辞 巻の壱  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱     NO1   
                    教主寛大 講述



教主.   出座.   厳戒の辞


テッシン、セイキョウ、ミキョウ、泰岳円海の如く神の栄光に浴したる者にして真の神を知る。汝等衆人は神ありとのみ聞かされて真の神を知るあたはず。知ることを得ざるが故に信ずることも難く、信ぜざるが故に神をおろそかにするは当然にして、決して其を彼是と我等は咎むるものにあらず。まことに不憫なるものとのみ思ひ居るなり。汝等衆人の世界は至って智慧うすき者の集合にして、唯以前より伝はり来たりし長き習慣にて生存なし居るにすぎず。まことに怖ろしきものは習慣性にして、大切なるものも亦習慣性なり。
衆人の世界は種々様々の行事ありて、その行事が心を改めしめ、又心を暗くすることの資料に供せられあるによって、今日は正月なりとして其に対する行事を営み、其によって気分を新にする如きは皆其々、習慣性の法の表はれに他ならざるべし。古来よりの行事が年々変化するに従ひて、正月の気分も従って変化しつつある事は、是又いなみ難き事実ならん。幼き頃の正月気分と、年長けて今日の気分とに相違あるも皆、此習慣的行事の現はれなるべし。故に気分を養ふには或程度行事を必要とす。この事柄よりすべてを推し測り見よ。神ありとの思ひを貯へてその方向に向って行事を進むるならば、自づと神の現はれ来ることもあるならんとの考へは起る筈なり。行事とは法なり。法によって信仰の度を深め行かば、望みは叶へらるる道理ありとは思はざるか。彼是れと思ひ惑ひて習慣性とならざる法力を用い居りては、望みは得られずとの考へも従って起る筈なり。泰岳の如く生まれながらにして神を知る如きは数あるものにあらず。是等を偉人と云ふの他なかるべし。円海の如く神を知らざるものが、種々様々の難行苦行を重ね、然して神を知るに至る。是等は習慣性法力のつみ重ねたる結果なるが故に、所謂信仰の力によって望は達せらたるにて、是等は偉人と云ふにあらず、熱心なる信仰者なりと云ふの他なからん。汝等衆人と雖も円海の如く難行苦行を重ぬれば、かくなる素質は与へられ居ることは言ふ迄もなし。されど汝等衆人の悉くがみな一様にかかる行為をなし得られざるは、体力の欠陥あるによってなり。体力整ひ居り信心堅固なれば必ずや望は叶へらるることは、幾多の経験にもあることにて疑ふ余地はあらざるなり。汝等衆人は体力の相違より心にゆるみを覚え、或は緊張を感ずるによって変化はあれど、常に張り切りたる心をゆるめずば、信仰の力も自ずと加はり行くことは察せらるるならん。されど常に緊張したる心を貯へ居る人は、肉体堅固の人ならではなし得らるるものにあらず。肉体にゆるみを感ずるが故に、心も是に加はりて張り切りたる思ひも従ってゆるみ、ために信仰の力はにぶるなり。汝等衆人は道を歩むにあたっても疲れたりとて路傍にいこひ、又思ひ出しては歩みを進む。今日は雨なりとて宿の寝床に眠りを貪り、今日は寒しとて火桶を抱きて又一日を空しくする如き信仰なるが故に、旅の道は進捗(はかどら)ざるは是みな心のゆるみより来る現象なるべし。体力健全ならば衆人を追ひ越して、望みの地点に到達を速にするは身心共に健全なるによってなることは云ふ迄もなからん。我等は汝等諸子を導くにあたって背後より尻押しをなし、或は前方より手を引きつつ歩ませ居るなり。されど汝等衆人は足疲れたりとか、身体に疲労を感じたりとか称して、憩ひを長くなし居るが故に、今尚目的の半ばにも達せざるは是又是非もなきことなり。

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