覚者慈音514  未知日記第八巻  三世と四世論  インショウ.ミキョウ貴尊講義

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第二の巻
           現在の巻        其の66
  第四十八     迷悟の人と正悟の人
                       NO2                            
              インショウ、ミキョウ貴尊講述


 此の零体本旨にうつるには凡てを霊に帰せざれば大悟は得られじ。霊に帰せしむるには心を空となさば可ならんか。否々空となすは魂魄を一体ならしむる法にして空のみにてはさとりは得られざるなり。空と思うも是又迷いなればなり。然らばさとりは何によってか求むべき。答へて曰く、其は智慧なりと。即ち智慧を求むるにあらざればさとりは得難し。されば与へられんとは智慧を指したるならん。求むれば智慧は得らるるなり。世人は求めざるが故に得られざるなり。智慧にまさる財宝はあらざるならん。施せば施こす程尚増大する宝は智慧を措いて他にあらんや。かの愚者と云はるる泰岳も師の教へによって零体本旨に立ち返へる修行をつみて得たるさとりなれば、その智慧は広大なるはたらきをなすによって一切凡てに通じて同化するを得るなり。さればその零体本旨の智慧に立ち返るなればこそ言葉を知らざる彼なるにより、何事も知らずと答へながら人を導く力そなはりたるなり。故に彼は真のさとりを得たる人なり。言葉に依って導くは人間のみにして不言にて導く力は一切衆生なれば無限の力ならざるべからず。凡て世に生を享けたるもの感じなきものあらんや。感じある以上その感じに同化すれば通ずべし。言葉の範囲はきはめてせまし。故に一切衆生を導かんとならば無言の智慧ならざるべからず。是を得るには零体本旨に立ち返りて零体本旨の智慧を求めずば完全なるさとりを得たる人とは云いがたし。世人はこの境地に達することを得ると思うや。到底望めじと思う人は多かるべし。もとより万人悉くとは云い難けれどその組織は悉く有しあるなり。されば凡ての程度、凡ての分野に従いて道を求め其に応じて修養修行するは大切にして是をなすは天の使命なり。
 先にも語りしが泰岳が多くの徒弟等と共に錫杖をならべおきて「杖来い」と命ずれば彼の杖は彼が手元にすべり行きたるに対して師は魔法にあらずと云いたるも、これ零体本旨の智慧の力なり。又彼は病める人の枕辺に座したるのみにて治癒せしめしも零体本旨の智慧のはたらきに他ならざるなり。世人は現われたるものに囚はれて心奪はれ、かくれたるものには無関心なるが故に大智は得られざるなり。例へば無電機によって遠距離の事柄を見聞なすを得たれば凡てを機械に依存し、機械の力は偉大なりと賞讃するならん。機械は誰の作りたるものぞ。人間なるべし。然るに人は機械に及ばずとの心より人力を軽く見るならん。一流界には機械などの不便なるもの一としてあらざるなり。世人の世界には機械の大切なる事は云う迄もなけれど我等の云わんとするところは修行者の心がけのあやまてるに対してなり。世人は人間にして機械を発明する智慧を有するならば機械よりすぐれたるはたらきある事を考へなば、有形に囚はれず無形の方向に智慧をむけざれば大なる発見はなしがたからん。無形とは暗黒を連想するならん。地中を探りて宝を求めんとなす如きは有形観念なり。暗き観念は魔道をさぐるに他ならず。零体本然にかへるには光明より光明へと歩まずば零体本旨の恩恵に浴するは難からん。暗き心は冥途に迷い、明るき心は光明に昇るとは世人も語りあいつつあるならん。然るに世人は暗き方にのみ歩みを運びて明るき方向には却って眼を覆うてまばゆく感じ居るなり。

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