覚者慈音515  三世と四世論  智慧の区別  インショウ.ミキョウ貴尊講義

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第二の巻
           現在の巻        其の67
  第四十九    智慧の区別
                       NO1                            
              インショウ、ミキョウ貴尊講述


 小児は一段にても高きを悦び、又種々なる質問をなして父母を苦しむるは何故ぞと聞かれなば世人は唯本能的素質なりと答うる他なかるべし。本能的向上心とのみにては満足は得られざるなり。今一歩進めて思惟し見ば如何なる解決は得らるるか。もとより世人も小児時代にはその行為をなしたるならんも、其に対する心理状態は記憶しあらざるべし。故に本能と云う他なからん。然し是を我等が説明すれば蒔かれたる種子が二葉を出して成長する経路にして本能に相違なきも其を無意味に放棄することなく思惟し見よと勧むるなり。所謂高きを望み質問するは速に成人せんことの欲求なるべし。是は本能なれどその根底は霊智よりの催促にして早く肥料を身心に与へよとの欲求なり。赤子は泣きて餓えを訴うるも霊智の欲求なることに考へをすすめ見るべし。斯る事は無駄の智慧にて頭脳を悩ますのみ、何等の効果なしと考うるは一般人の常なるによって智慧は進まざるなり。人の発見したるものを利用して自らは心を労せずして金儲けさへすれば、其にて事足るなど思い居る人は多かるべし。斯る事にては世を益することは難し。余事は別として智慧ははたらかせずば増大するものにあらず。小児の欲求は智慧の増大を計り居るなり。
 凡ては智慧なり。赤子の欲求も帰するところは智慧の欲求なり。智慧のはたらく力なり。何となれば零体本旨は絶対を生み絶対は相対を生む関係より生じ来る順序より現はるる現象なるによってなり。されば智慧の種類を区別すれば零体智絶対智相対智の三種に大別して説明することを得べし。今これを分り易くせんため零体智を大智とよび、絶対智を中智、相対智を小智と名づけて説明せんとす。故に大智は零体本旨の智慧のはたらきと知るべし。相対智に属する小智は世人一般に有するにより今更こと新しく論ずる必要なけれど、世人が夢想だにせざる重要なる点について少しく語るべし。
 智慧と云へば世人は唯心のはたらきなりとのみにて、是は頭脳の明不明によると考へて頭脳明晰なるが故に智慧ある人なりとか、或は愚とか頭にぶしとか語り居れり。されど我等が語らんとするところは他にあるなり。世人の中によく語り居る「彼は愚者なるに不拘彼の事柄にたいしてのみ特にすぐれたる智慧を有するは実に不思議なり」と語り居るをよく聞くところなり。斯る人は少なからずあるならん。我等が云はんとするは是なり。世人は是等を愚者として観察するか、或は智者として取り扱うかは別としてその特殊の智慧は如何なる関係より生ずるかに思いを馳せしことなからん。唯其は天分とか天性とかに帰せしめて深く考慮せざるならん。世人は種々様々見聞を広くし居る人を賢者と思い、然らざるを愚人と見なす傾向より人を見る眼識に欠くるなり。特殊の才能を有する人は愚者にはあらざるべし。世の中に名人上手と云はる芸能者こそ、我等に云わしむれば賢者に属せしめて可ならん。兎に角是等の部類に属する人は賢愚を超越したる賢者にして相対智を脱したる絶対智の人なればなり。

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