覚者慈音513   三世と四世論  第四十八  迷悟の人と正悟の人  インショウ.ミキヨウ貴尊講義


               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第二の巻
           現在の巻        其の65
  第四十八     迷悟の人と正悟の人

                       NO1                            
              インショウ、ミキョウ貴尊講述


 世には迷悟の人は多くして正悟の人は少なし。是は何故かと云うに肉体中心よりのさとりは多くして、天理よりの悟りを求むる人は稀なる故なり。即ち摩擦根を手なづけして唯魂魄より受くる結果によるところ多き故なり。世人の中にはさとりをあやまりて人間は自然に反する行為をなすは天理に反す。恋をなす年齢には恋すべし。淫したくば淫すべし。何事も欲するがままに偽わらざるは悟道を得たるなりなどと人を煽動し居る宗教者すら見受けらるるなり。はたして其は真のさとりなりと思うや。肉体本位のさとりには斯くのごとくあやまりたる事多し。然らば真のさとりとは如何にと云うに其は天を中心としたるさとりにあらざれば真の理に合わざるなり。肉体的さとりは動物性にして精神的さとりならでは正しきさとりとは云い難し。されば是を得るには如何にせば可ならんかと云うに、先づ肉体を精神に従わしむるにあらざれば正しきさとりを得る事は難からん。是をなすには余りに肉体を苦しむれば却って肉体に反抗心を強くせしむるのみにて目的は達し難し。さればとて肉体を余りにいたわれば是又優柔不断となり望みははたされず、依って肉体を程よく手なづくる法を工夫する必要あるべし。恰も小児を寺参詣に導かんとせば、その好むものを与へてしばしば是をくり返せば、はては小児より寺参詣を促さるるようになる如く、肉体は動物魂を有し居りて小児の如きものなれば手なづくれば案外簡単に同化なすものなり。さとりとは即ち妨げを取り去りて正通せしむることを云うなり。すべてに通ずるには障碍ありては貫徹すること難し。その障碍物を消去するはさとりなるべし。
 下界にありて天界との交通を計りても妨ぐるものを斥けずば交通は難からん。人間には如何なる人と雖も心(しん)のかたまりたる如きもの伏在しありて、其が恰も胸づかへしありて失せやらず、その塊に苦しめらるるものなり。其れが何れかに流れ去ればすがすがしくならんと思へど、意の如くならぬものにて苦しめらるるものなり。故に如何にかして取り去らんと苛だてば苛だつ程濃厚となりて去らぬは此こりの性質なり。是ぞ即ち妨げにして迷う不安の種子なり。是を清除すればさとりとなるなり。
 肉体的のさとりには限度ありてさとるもさとらぬも何れにても最後は既に滅すとの一言につきるならん。精神的のさとりには限度なければ従って迷いも多し。迷いはさまたげなり。その妨げを取りさらざればさとりにはあらざるなり。さとりし人は心に屈託なくすべてを明確に処理してあやまたず。さとりをあやまりし人は凡てを処理するも決して意の如くならずして失敗の連続となるは云う迄もなし。そは迷悟なる故なり。されば正悟ならざるべからず。絶対と云うも迷いなり。何となれば絶対信絶対疑と云わば其は即ち絶対相対と云う関係となる理論も成立するによってなり。故に今後は絶対と云う言葉を改め絶絶対を零体本旨と仮称して説明なすこととせん。故に是を諒せよ。

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