覚者慈音507

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第二の巻
           現在の巻        其の59
  第四十五     摩擦根は根絶するか                               NO1                
             インショウ、ミキョウ貴尊講述


 或人曰く人に善悪あるも神の造りたる故なり。神は人に修養修行のための道しるべとなさんがためなり。もし善人のみならば修行の道は開らかれず、悪人のみにても亦同様なり。依って善人は悪人の手本となし、悪人は善人の手本として作られたりと語り居るを我は聴きたり。一理ある如く聞ゆる教へなれど、是は無智者に教ゆる譬にて智者には通ぜざる言葉なるべし。何となれば神には善悪の区別はあらざる故なり。此言葉を理解する人は幾何ぞ。世人は深く考うべし。我等は語らざるべし。もし聞き度くば光明論一の巻を熟読玩味せば明らかならん。神の思し召しは我等のあづかり知るところにあらねどすべてのものには順序を定めて作り給うことは我等も知るなり。例へば米を作るに籾より稲、稲より茎と変じて最後に穂を、然して米となす如く籾より直ちに米とはなし給はざるなり。慈音が家族と語り居る如く樹木より稲穂が垂れて摘めども尽きざれば如何に食料の憂なからんにと云へることも神の力にてなさんとせばいと易き事なるべし。世人は五味の木の話を聞きたるならん。なさんとせば斯るものをも与へ給うなり。されど世人の世界に斯るものを与うれば向上の一路をふみ迷いて安逸に世を過すを以て神は斯くもなし給いたらんと我等は思うなり。もとより五味の木は事実あれどこの例は深き意味を有するなれば唯垂涎して聞きのがすべからず。
 其は兎に角心意魂魄霊の五味の木を作らん事に努力すべし。さて魂魄一体となれば摩擦は絶滅するかと云うに実際は然らず。何かの形に変じて残存するなり。恰も稲より米となりても藁に附着しある稲葉の如き関係あるなり。故に我等は摩擦根を追い出せよと説きたれど根絶せしめよとは語らざりしも是あるによってなり。されば摩擦根は如何になるかと云うに魂魄が次第々々に接近するに従いて今迄猛威を振いたる力も自づと衰へ追い出されて心意と交はりて是等を攪乱し心意は魂魄によって力強くなるに及んで又衰へて追い出されて肉体と交はり肉体滅するに及びて是よりぬけ出で他に転ずるなり。斯く語らば至極簡単なれど事実是に到達する迄には非常なる努力と忍耐を要するなり。
 是に対して一例をあぐれば、或行者修行の功なりて下山せんとて山を下りとある家に宿をかりたるに、其家の老婆に要望されて行中の事など語り居たるに老婆は感心してさてさて尊き人なるかなと云いたるに行者は満足げに微笑みたるをめざとく見たる老婆は、言葉を変へて尊き人かなと思いしにはさて未行の人なるかな、今一度山に帰りて修行せられよと云いたるにぞ行者は不審してそは何故なるかと問へば老婆曰く我、汝を尊し云いたる言葉に対して汝は満足の意を表はしたるは是未だ人間味を有する故にて未だ修行の達せしあらざるを知るなればなりと。是を聞きて行者は大いに恥じて再び山に帰りしと云う逸話あるなり。老婆の語りし人間味とは即ち動物根を指したるなり。


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