覚者慈音508    三世と四世論   摩擦魂は根絶するか インショウ、ミキョウ貴尊講義

               三世と四世論
           未知日記第八巻
           第二の巻
           現在の巻        其の60
  第四十五     摩擦根は根絶するか                                   NO2                
             インショウ、ミキョウ貴尊講述


 摩擦根は斯くも執念深くして容易にぬけきれぬものなれば他力宗にては「あなたまかせ」としてそのまま成仏せしめんと計り居るも一つの方便なるべし。摩擦根を追い出す方法としては数限りなけれど要は智識を増大して是を明らむるにあらざれば目的は達しがたし。智識を増大するにはすべての方面に見聞して修養を広く深くして是によって分別工夫するを要するは云う迄もなからん。人命には限りあり、修養には限度なければ是を究むるは難からん。かく宗教者がみな其々に苦しむも帰するところは摩擦根を征服せんとしたる結果なり。されど神より与へられたるものを除去(はら)はんとするも及ばざるは当然なり。故にこの摩擦根をそのままにして有意義にはたらかしむる方法を案出せざれば天理に反す。さればその法を構ずるは神に対するつとめなるべし。我等先に語りし如く小悪たらんよりは寧ろ大悪たれの言葉の如く摩擦根は斯くも人を苦しむる力を有するならば使用の法を以てすれば意義あるはたらきをなすは当然なるべし。よってここに着眼せば自づと道は開らかるるも亦明らかならん。人には幸い天よりあたへられたる魄の力あり。是によって摩擦 根を手なづけるならば必ずや望みは達せらるべし。
 先に語りし泰岳を見ても知らるる如く彼は幼児より拝みを続け遂に摩擦根を猛威を振うに至らしめずして魄に従はしむるに至りたるなり。この事より考うるも拝みの法のすぐれたることを知るならん。ものの理を明らむるも拝みなり。ものを深く考うるも即ち拝みの法に合うなり。何となれば拝みと云うは摩擦なればなり。自問自答これ又拝みなり。自問も摩擦にして自答も亦摩擦なればなり。即ち摩擦によって動物根を手なづけて魄の性に或は魂の命に服従せしむるを追い出す即ち清除すると云うなり。仏教にては仏凡一体と云うも是なるべし。摩擦根は魄とは大なる相違あることは今迄語りし如く分別とか或は判断力又推理力に乏しけれど、魄には其等の条件は完備しあるによって摩擦根を手なづける力あるなり。されど一般人は是をなさんとせず、否なす術を知らざる故ならん。然れば摩擦根を手なづくる方法は如何にと云うに摩擦根を手なづくるには先づ魂との接触をなさしめざることが肝要なり。
 元来摩擦根は魂とは融和なせど魄に従うを厭う故なり。幼児の頃人間魂は動物根の感化をうけ居りて、善とは何か悪とは如何なるかすら理解するを得ざりしに、魄の姿現はるるに及んでよしあしの意味も解し更に斯くするは善斯くするは悪との区別をも理解するに至る。此頃より人間魂も動物根とのへだたりは現はるるなり。故に人間魂は魄と融和なすなり。されど動物には魄なきにより苦しみより度脱する法を工夫することを得ざるなり。もとより人魂と動物魂とは光素に於ては異なるところなけれど組織の点に於て大に異なるところあるなり。人間は動物より勝れたるはこの組織の優れたる故にして、たとへ魄に和する力なく一生摩擦根にて終るとも他の動物は到底人間には及ばざるも人魂組織のすぐれたる故なり。このすぐれたる力あればこそ魄に和することを得、もし動物に魄を与うるも和することを得る力はあらざるなり。

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